「子供市場」で海外への出稼ぎも スイス児童労働の歴史をたどる特別展
家に設置した織機で作業する農夫と息子(写真=すべて筆者撮影)
スイスは治安や経済が安定し、生活水準も高い国だ。しかし、貧困が深刻だった時代には、多くの子供たちが家庭や工場で働き、近隣諸国へ出稼ぎに出た。スイスの子供たちが過酷な労働を強いられた事例をまとめた特別展『貧困の中での誕生——働く子供たち』が、2026年4月までチューリヒのスイス国立博物館で開催中だ。スイスにおける児童労働の歴史を知ることで、この国の暗い側面を垣間見ることができる。
◆子供は家庭における重要な労働力だった
イギリスで始まった産業革命は、1800年代初頭にスイスでも起こった。それ以前は、酪農や畜産、穀物や野菜・果物の栽培、ワイン用のブドウ栽培と、スイスの全労働者の最大80%が農業に従事していた(産業革命後の1910年までに約30%に減少)。
多くの農家では親が働くだけでは家族全員を養えず、子供たちは幼い頃から生計を支えなければならなかった。労働時間は季節や天候に左右されたが、干し草作り、牛や山羊の放牧、牛乳の運搬など、仕事は山積みだった。子供たちは家事も担った。内職(出来高制の仕事)で収入を補う家庭もあった。作業道具は子供用に小さいサイズで作られた。

少年少女は小さい容器を背負い、山から谷へ搾りたての牛乳を運んだ
内職の一例が、冬季のワラ編みだ。チューリヒ州の一部やヴァレー州南部など、いくつかの農村地域で産業として発展し、子供たちも支え手となった。子供たちは一日中、時には夜遅くまで簡単な作業をこなしていた。レースを編み、観光客に直売する地域もあったという。ある山村では、農家の子供は皆、6歳になるとレース編みを覚え、1人1日50センチメートルのレースを編むことを期待されたという。

ワラ細工の例。屋外労働用だった麦わら帽子は18世紀には町でファッションとして扱われた

ボビンレースを編む道具
スイスの農民にとって、絹の生産は長年にわたって重要な副収入源だった。養蚕・絹織の技術はシルクロードを経由してヨーロッパにもたらされ、イタリアやフランスで発展してから、1600年代にスイスに伝わった。家内工業生産の形で、商人が農民に道具や機械を提供し、原材料や半製品を供給し、農民が織る作業を担った。何万人もの大人や子供がこの仕事に従事していたという。大人より視力が良く、指が細い子供たちは絹織に適しており、糸を巻き付け、糸を通し、糸をほどき、絹を洗う作業などを担った。
◆工場で昼夜を問わず強制労働させられる
産業革命以降、工場が建設され、人々の働く場所が広がった。それは同時に、子供たちが工場労働者として搾取される時代の到来でもあった。
6歳から10歳の子供が、湿気が多く薄暗い繊維工場や絹織物工場、綿生地のプリント工場などで、1日最長16時間働くことは珍しくなかった。子供に与えられた仕事は単純だったとはいえ、機械の下に仰向けになって掃除や油差しをしなければならず、危険を伴った。油脂が顔や衣服に垂れることもあった。子供が受け取るわずかな賃金は、家族の生存に不可欠だった。

子供は小さいオイル差しを持ち、電源を切った機械の下に潜り込み、メンテナンスをした
1850年代には、自治体が貧しい住民の保護を始め、貧困層の家庭の子供たちは「工場の家」と呼ばれる施設に収容された。これらの子供たちは工場で働かされ、学校にほとんど行けなかったり、全く通えなかったりする場合もあった。1855年に開園した中央スイスの施設では、施設近くの紡績工場で働く400人のうち、約100人が14歳未満だったという。
ある紡績工場の日課を見ると、その過酷さがうかがえる。
【日勤】7時に起床。朝食と勉強(学校)、自由時間30分の後、10時~22時に勤務。22時以降は食事と祈りを済ませて就寝。
【夜勤】18時半に起床。祈りと食事の後、19時半~翌7時に勤務。7時~10時は食事と勉強(学校)。10時以降は食事と祈りを済ませて就寝。
日勤と夜勤は週(月曜~土曜)単位で交替し、賃金は現在の為替レートで1日最高230円程度にしかならなかった(そこから家賃と食費が差し引かれた)。
◆出稼ぎして、家族を助けた子供たち
地元を離れて働く子供たちもいた。スイス東部では、1801年から100年以上にわたり、貧しい農家の少年少女たちは4月から10月の間、北イタリアや南ドイツへ出稼ぎに行っていた。
北イタリアでは煙突掃除が主な仕事だった。展示では当時の煙突のサイズが再現されており、子供の体格が煙突掃除に適していたことがわかる。体が大きくなると煙突掃除ができなくなるため、食事を十分に与えられないこともあったという。掃除中は身を守るため、上着を着て頭に麻袋をかぶったというが、頻繁に傷やけがを負い、顔はいつも煤(すす)で黒くなった。寒さや霜で足が凍傷になることも少なくなかった。十分な衣類も支給されず、寝る場所も家畜小屋や納屋など劣悪だった。

煙突掃除のイメージ。煙突の穴と煙突掃除の道具
南ドイツでは農作業、家事の手伝い、幼い子供たちの世話などをした。子供たちの行き先は、多くの場合、「子供市場」での取引で決まった。筆者の知人(60代)によると、彼の先祖が子供の時に実際にその市場を経由して南ドイツに出稼ぎに行った。毎年、同じ農家で七面鳥の世話をしたという。幸い、思いやりのある農家で、不当な扱いは受けなかった。数年後には養子にしたいと言われたが、両親は断ったという。

南ドイツで行われた「子供市場」の様子(1849年作)
農家の少年少女たちが、安価な労働力として取引された
◆偏見による児童労働も、200年以上続いた
スイスの児童労働は貧困と密接に関連しているが、社会的な偏見によっても引き起こされた。産業革命の時期から1900年代まで、各地の地方当局は「強制的な福祉措置」という名目で、未婚や離婚した母親、またスイスの少数民族(ヨーロッパの移動型民族)であるイェニシェとシンティの家庭などから、子供たちを強制的に連れ去った。そして里親(多くの場合、農家)に預けたり、児童養護施設などに入れたりしたという。「一般的な家族像に当てはまらない家庭だから」というのが理由だった。多くの子供が重労働を強いられ、暴力を受けたり栄養失調に陥った。治験の被害者になった人もいるという。
この差別的な扱いは、1981年に法的手続きなく子供を里親や施設に預けることが禁止され、ようやく終止符が打たれた。
◆義務教育や工場法の導入
1800年代後半には、児童保護の施策が講じられた。それまでは各州が独自の学校制度を有していたが、1874年には全国的な義務教育(無償の公立学校制度)が導入された。さらに、慈善団体の訴えや労働運動により、1877年には14歳未満の労働を禁止する連邦工場法が施行された。
これにより、雇用者や保護者にも「子供は小さい大人ではなく、教育を受ける基本的権利を有する」という理解が広まっていった。しかし、すぐには実現しなかった。先述のように、北イタリアでの煙突掃除の仕事は、新しい暖房方法が普及する1950年代まで続いたという。強制的な福祉措置も続いた。
◆病気、暴力、性的虐待 心身に傷を負った子供たち
しばしば重労働を強いられた子供たちは、健康を害することもあった。特に問題となったのは、マッチ製造工場で蔓延した「フォッシー・ジョー」と呼ばれる顎の骨の病気だ。マッチに使われる毒性の強い黄リンは歯痛や膿を引き起こし、最終的には顎の骨の壊死に至る。この病気はスイスだけでなくヨーロッパ諸国でも注目を集め、黄リンマッチの製造禁止につながった。

20歳の時に職業病のリン中毒性顎骨壊死になり、下顎の骨を摘出した女性
病気だけでなく、暴力や性的虐待も蔓延していたという。先述の知人は「出稼ぎに行った女子が性的虐待を受けて妊娠すると、カトリックの山村にいる両親から、家に戻ってこなくていいと言われることもあったそうだ」と話していた。本展では、そうした国内外での辛い経験を文章やアートで表現している当事者たちも紹介されている。

子供時代に過酷な肉体労働、暴行や暴言、性的虐待に苦しめられた人たちの作品
左はGabriela Pereira(1964年生)作、右はChristian Tschannen(1971年生)作
児童労働は多くの人たちから、「普通の」子供時代を奪った。後遺症に苦しめられている人も多い。国連児童基金(ユニセフ)によると、2024年時点でも、世界では約1億3800万人の5歳〜17歳の子供たちが鉱山、カカオ農園、繊維工場などで強制的に働かされている(そのうち4割は危険な仕事に従事)。裕福になったスイスでは、児童労働にはあまり関心が向けられていないかもしれない。本展は多くの訪問者に、「児童労働を減らすために、自分には何ができるのか」を真剣に考えるきっかけを与えるはずだ。




