緑の粥? エンドウ豆スープ? 抹茶を初めて口にした西洋人はどう思ったのか
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著:Rebecca Corbett(南カリフォルニア大学、Japanese Studies Librarian and Senior Lecturer in History)
オーストラリア放送協会(ABC)ニュースが2025年7月に報じたように、「抹茶ブーム」は衰える兆しを見せず、世界的な需要によって「サプライチェーンが危機に追い込まれている」。
その粉末の飲み物は、東京でも根強い人気を誇り、毎週土曜日ともなれば、「The Matcha Tokyo」の店頭には長い行列ができる。このモダンでミニマリストなカフェでは、スタッフが鉄瓶や竹製の柄杓を使う。いずれも抹茶の伝統的な点て方「茶の湯」への敬意を示す道具だ。茶の湯は文字通り「茶のための熱湯」を意味するが、英語では「tea ceremony」と訳されてきた。
東京以外でも、抹茶カフェやバーは、ストックホルムからメルボルン、ロサンゼルスまで、西洋の都市でよく見かける光景になった。スターバックスでは2019年から、ダンキンドーナツでは2020年から、抹茶は定番メニューだ。
長らく西洋で懐疑的な目で見られてきた飲み物にとって、これはかなりの躍進だ。
◆万国博覧会が披露の場に
筆者は2024年、日本研究フェローとして早稲田大学に滞在し、日本の急速な近代化・西洋化が進んだ明治時代(1868年〜1912年)に、西洋人が抹茶と茶の湯をどのように経験したかを研究した。
抹茶は、若い茶葉を石臼で挽いて粉末にした緑茶の一種だ。茶葉を浸して取り出す他の茶と違い、抹茶は粉末を熱湯に溶かして茶筅(ちゃせん)で点てて飲む。
抹茶の起源は中国にあり、西暦1250年ごろに日本に伝わった。1500年代以降は茶の湯で重要な役割を担うようになった。1500年代に日本にいたポルトガルのイエズス会宣教師も、抹茶と茶の湯の双方について書き記している。しかし、日本国外で抹茶への関心が本格的に高まったのは19世紀になってからだ。
19世紀後半になると、ヨーロッパやアメリカの都市で万国博覧会が開催されるようになった。これらの催しは、世界各国が自国の芸術、発明、文化を大勢の観客に披露する場となった。
新興国だった日本にとって、万博は絶好の機会だった。日本代表は展示ブースで茶の湯の実演をしばしば行い、日本政府と茶業界は抹茶を含むあらゆる種類の日本緑茶を大々的に売り込んだ。
◆当初の懐疑的な見方
浸出して飲む日本の緑茶は19世紀のアメリカで人気になり、多くの場合ミルクと砂糖を入れて飲まれたが、抹茶は当初、西洋人の味覚に合わなかった。
長年日本に住んだアメリカ人ジャーナリストで旅行作家のエライザ・ルアマー・シドモアは、1891年の著書『Jinrikisha Days in Japan』で、抹茶を「キニーネよりも苦い緑色の粥」と表現した。裕福なカナダ人旅行者キャサリン・スカイラー・バクスターは、1895年の著書『In Beautiful Japan: A Story of Bamboo Lands』で、抹茶の茶会体験について詳しく述べている。
「その飲み物は、粉末の葉から作られ、色は緑がかっていて、エンドウ豆のスープのようにとろりとしていて、香りはよいが、あまりおいしくない」と彼女は書いた。筆者の研究では、当時、抹茶を表す最も一般的な言葉は「エンドウ豆のスープ」だった。
当時の新聞記事にも、抹茶と茶の湯に関する記述は豊富にある。
カナダ人ジャーナリストのヘレン・E・グレゴリー・フレッシャーは、サンフランシスコの読者に向けて日本の茶道について書いた。濃く点てた抹茶「濃茶(こいちゃ)」について、「不愉快な気持ちにならずに飲めるヨーロッパ人はほとんどいない」と記した。「まず味が好ましくないうえに、非常に濃いため、なんとか飲み込めたとしても、体が受けつけないだろう」
セントルイス・グローブ・デモクラット紙に寄稿したモンテギュー伯爵夫人アンナは、1904年のセントルイス万博で参加した茶会について報告した。彼女は抹茶の風味を「絶妙」と評したが、アメリカの読者に警告を残している。「砂糖やクリームを入れずに飲むこの高価な茶は……慣れていない人にはおいしくない」
◆茶の儀式を学ぶ
日本に住みながら茶の湯を学んだ少数の西洋人の記録も残る。これらの記録に彼らの抹茶そのものに対する感想は書かれていないが、少なくとも学び続けるだけの程度には好んでいたはずだ。いずれの例でも、数年にわたって茶の湯を学んでいるからだ。
茶の湯は単なる給仕の儀式ではない。抹茶や料理の出し方・受け方にわたる一連の作法を学ぶ実践であり、家元制の諸流派によって教え伝えられている。
稽古では、生徒は見て実践することで、亭主と客としての振る舞いを学ぶ。こうして得た学びは、「茶事」と呼ばれる正式の茶会で、亭主または客として実践する。茶事は3〜4時間に及ぶことがあり、多皿の懐石(かいせき)、数献の酒、そして炭を据えて継ぎ足すなど、複数の過程からなる。
抹茶は2回に分けて出される。最初は濃茶として、次には「薄茶(うすちゃ)」として点てられる。それぞれに和菓子が添えられる。
スウェーデン人女性のアイダ・トロツィヒは、1888年から1921年まで日本に住み、茶の湯を習った。スウェーデンに戻った後、1911年に『Cha-no-yu Japanernas teceremoni』という本を出版している。アメリカ人のメアリー・アベリルも、茶の湯と生け花の両方を学んだ。
1905年、京都にある裏千家は、アメリカ人3姉妹のヘレン、グレース、フローレンス・スコットフィールドを生徒として受け入れた。彼女たちは家元に師事し、1908年には3人が着物を着て日本髪を結った写真が、流派の月刊誌に掲載されている。
◆茶の湯抜きの抹茶
近年の世界的な抹茶ブームについて、学者は特定の原因を突き止めていない。しかし、いくつかの要素が考えられる。
まず、特にインスタグラムやTikTok(ティックトック)などのソーシャルメディアが大きな役割を果たしているのは明らかだ。鮮やかな緑色の飲み物は見た目が美しい。また、多くの健康効果がうたわれ、アサイーベリーやコンブチャといった他の話題のスーパーフードの仲間入りを果たした。
次に、西洋人が日本を「古の知恵」の源としてしばしば神話化する傾向がある。それに伴って、抹茶を含む日本の伝統的な習慣、ライフスタイル、食べ物への特別な憧れが生まれている。
最後に、人々は茶の湯に結びつくミニマリズムの美学に引かれているようだ。その美学は、枯山水や書道といった他の日本の習慣にも通じる。
興味深いことに、今日、抹茶を飲む人の圧倒的多数は茶の湯を体験していない。その一方で、抹茶を提供する店は茶の湯の美学を借用している。19世紀後半は、茶の湯を体験せずに抹茶を飲むことはできなかった。そして抹茶は常に「ストレート」で出され、ミルクや香料、甘味料が加えられることはなかった。
筆者は時々、もしモンテギュー伯爵夫人がYelp(イェルプ)でセントルイス最高の抹茶店と評価されている「パイパーズ・ティー&コーヒー」を訪れたら、何を注文するだろうかと想像する。ストレートを好むだろうか? それとも、バニラ抹茶ラテに桜のコールドフォームをのせた「イン・ブルーム・ラテ」に心奪われるだろうか?
This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.
Translated by NewSphere newsroom
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