分裂のスペイン ある女性の「スペイン人である意味を問う」投稿に多くの共感
著:L. Finch(Global Voices News Editor)
カタルーニャ自治州の独立への試みとスペイン政府の反応は、この国を未知の政治領域に押しやっているだけでなく、憎悪の種を蒔いている。現在のスペインを表す言葉は「分裂」だ。
この危機が、現在の二極分化状態においては危険なほど不適切で、ほんの40年前までファシズム政権下にあったこの国にとってはうんざりするほどなじみのある、“我々対彼ら”というメンタリティーを生んでいると、多くの人々が警鐘を鳴らしている。
スペイン憲法裁判所によって中止され、中央政府によって違法と判断された、10月1日に行われた独立の是非を問う住民投票を支持しない向きは、反カタルーニャだろう。投票に来たカタルーニャの人々に対する警察の暴力行為のような中央政府の動きを称賛しない向きは、反スペインだろう。好ましい言語はスペイン語だけ、あるいはカタルーニャ語だけ。スペイン人のアイデンティティー、あるいはカタルーニャ人のアイデンティティーがあるのみ。二つに一つの状況だ。
このような声明があふれているが、状況は本当に二極分化していて、スペインという国は一様なのだろうか。ある女性がFacebookへ投稿したスペイン人であることの意味を問う記事の人気から判断すると、答えは「ノー」だ。
ローラ・モレーノ・デ・ララ氏は、拡散された記事の中で、スペインは内包する多くの異なる文化、習慣、言語を歓迎し、その多様性によって定義されるとしている。軽蔑と暴力の国ではなく、結束と愛の国だと。
2017年10月2日に投稿された彼女の記事はWhatsAppで拡散され、一週間で324,000件以上の“いいね”と37,000件以上のコメントを獲得。スペイン中の人々を深く共感させたようだ。
多くの人々が政治的視点からアイデンティティーについて語るのを目にし、スペイン人であるという概念に「人間性」を与えたかったのだと、モレーノ・デ・ララ氏はニュースサイト“Verne”に語った。彼女のメッセージの翻訳は以下のとおり(カッコ内は編注)。
いいえ、あなたたちはスペイン人じゃない。スペイン人であることは、旗を掲げて行進することでもないし、心にもない憎しみの言葉を猛然と叫ぶことでもない。手首に手錠をはめることでも、『太陽に顔向けて』(ファシスト政党の党歌)を歌うことでもない。スペイン人であるという概念はまったく違うものです。少なくともそうあるべきなのです。今の時点ではこれ以上どう言えばいいかわからないけれど。
ひとりのスペイン人女性である私にとって、スペイン人であるということはどういうことなのかお話ししたいと思います。
スペイン人であることは、ドニャーナ(国立公園)が(森林火災で)燃えたら熱くなり、ロルカが(2011年のスペイン南部地震で)揺れたら震えること。座ってガリシアのメイガス(魔女)の物語に耳を傾け、自分のことだと信じてしまうこと。バレンシアへ行ってバレンシア語で書かれた表示を読んでも怒りを感じず、読めたことに感謝すること。カリブ海はカナリア諸島にかなわないと自慢すること。
スペイン人であると感じることは、“Movida Madrileña”(“マドリッドの運動”の意。カウンターカルチャー運動)の時代を生きられなかったことを嘆くこと。(シンガーソングライターのホアン・マヌエル・)セラートの『Mediterranean』(地中海)を聴いて地中海に恋すること。酔っ払ってカタルーニャの友人にサルダーナの踊り方を教えてと頼むこと。マラガの祭よりも楽しいか確かめにアルバセテの祭に行きたくなること。セウタ(アフリカ北部に位置するスペインの飛地領)の美しさに驚嘆すること。
私にとって、スペイン人であることは、アンダルシアではビーチと雪と砂漠が見られると自慢すること。アリカンテ出身の人がノーベル賞受賞目前なのをまるで自分の功績のように感じること。アストゥリアスの人にシードルの注ぎ方を教えてと頼むこと。『ゲーム・オブ・スローンズ』のロケ地になったバスク州のビーチが見たくてたまらないこと。
スペイン人といえば、深夜のビール、ガリシアのオルホ(蒸留酒)、シエスタ、カリモーチョ(バスク州でよく飲まれている赤ワインとコーラのカクテル)、パエリア、タルタ・デ・サンティアゴ(“聖ヤコブのケーキ”の意。アーモンドケーキ)、おばあちゃんが作ってくれるコロッケとジャガイモのオムレツ(トルティージャ)もありますよね。スペイン人というのは、よそから来た人たちに自分の街の名物を自慢して、その人たちの街の名物を聞きたいと思うもの。ピンチョス(バルで出される軽食)をちょっとつまみに戻りたくて、バスクの人と仲良くなってバスク語で数の数え方を教えてもらうもの。この国が臓器移植で世界をリードしていること、数多くの文化を有すること、善意の国だと思われていることを誇りに思うもの。
なじみ深いサエタ(宗教歌)やコプラ(歌謡曲)を聴いて鳥肌が立つこと、暗くなるまでカディスのビーチにいること、思いがけず美しいマヨルカ島の入り江を発見すること、寒さを呪いながら9月にサンティアゴの道(巡礼路)を行くこと、美しくあるために大きくなる必要はないと気付かせてくれるサラマンカやセゴビア(の街)を有することほどスペイン人らしいことはありません。
私のアチョ、ピチャ、ミアルマ、ペルラ、トロンコ、テテ(スペイン各地の愛しい人に呼びかける表現)、私の愛しい子…… スペイン人であるというのはそういうこと。他のことは政治的な問題なの。でも、もしあなたたちが政治的な問題をこの概念に持ち込みたがるのなら、改めて言うわ。あなたたちは間違っていると。だって、スペイン人であることは、誰かの顔を殴りたいと思うことではなく、テレビで見た隣人の失業や立ち退きの問題に胸を痛めること。スペイン人であることは、自治体全体に「イエス」か「ノー」を迫ることではなく、次々と明らかになる汚職問題に馬鹿にするなと憤ること。よきスペイン人であることは、貧困と無知のない、病人が病院の廊下に放置されない国を望むこと。そして、ここに留まって働きたい、長い時間をかけてここでしっかりと学んだすべてを還元したいと思うことだから。
それがスペイン人であるということ。少なくとも、そうあってほしいと私は願っています。
This article was originally published on Global Voices. Read the original article.
Translated by Naoko Nozawa