言いたい事も言えない世の中に? アメリカを悩ます「政治的正しさ」 保守派も主張強める
多様性を尊重するアメリカでは、「政治的に正しい(ポリティカリー・コレクト、またはポリティカル・コレクトネス、PCと略される)」姿勢が求められるという。しかし、少数派や取り残されてきた人々の気持ちに配慮するあまり、従来の歴史、文化、習慣にまでPCを求めなければならない風潮は行き過ぎではないかという意見も聞かれ、多文化社会アメリカの悩みの種となっている。
◆他者に配慮するあまり、自由な発言ができなくなる
デジタル大辞泉によれば、PCとは、「人種、宗教、性別などの違いによる偏見、差別を含まない中立的表現や用語を用いること」だ。1980年代にアメリカで始まったとされ、その後、世界にも広がり、日本では「スチュワーデス、スチュワード」→「客室乗務員、フライトアテンダント」などいくつかの用語が置き換えられた。
筆者が90年代に米国で学んだ際、当時履修したクラスの教授(女性)のPCぶりに驚いた。フェミニストだった教授は、博士号を持つ自分に来る郵便物の敬称がMrs. (ミセス)となっていることが許せなかった。「男性であれば、ほとんどProfessor(教授)かPhD(博士)となっているはずなのに、女性であるが故にMrs.にされる」と嘆く教授は、一般女性に対しても、未婚既婚の区別を付けないMs.という敬称を使うべきだと強く主張していた。
今アメリカは、当時よりさらに多様性を重視する社会になったように思える。フィナンシャル・タイムズ紙(FT)は、同性婚やマリファナが合法化され、黒人大統領が選出され、女性大統領の誕生も間近と言われるアメリカでは、今がリベラリズムの勝利の瞬間であるはずだと述べる。しかし、それに伴って大学で復活したPCが、新たな問題を引き起こしているというのだ。
プリンストン大学では、連邦機関で人種隔離を再導入した人物であったという理由で、米国の第28代大統領で元同大学学長のウッドロー・ウィルソンの名をキャンパスから消し去ることを学生達が求めた。全米の大学図書館では、著名な文学作品が差別・偏見を助長するとして警告の対象にされ、大学教員は不適切という指摘を恐れ、自らの言葉を自己検閲するようになったという。
このような事態に対しFTは、高等教育の特質は、探究心を植え付け、この先にある理解しがたい世界に備えられる強いマインドを作ることなのに、アメリカの大学では「安全な空間」作りがお題目となり、逆の方向に進んでいる、と指摘する。自由な発言を抑えることが答えではなく、異なる声を聞き、議論していくことが必要だと述べている。
◆物言わぬ多数派が物を言い始めた
PCへの疑問は、大学だけでなくアメリカ社会にも広がっている。ワシントン・ポスト紙(WP)によれば、ジョージア州ハリス郡の保安官、マイク・ジョリー氏は、群を訪れる人々に向け、「警告:ハリス郡はPCではない。我々は、『メリー・クリスマス』、『神よ、アメリカを祝福し給え』、『我々は神を信じる』と言う。我々の軍隊と国旗に敬礼する。もしこのことであなたが嫌な気分になるのなら・・・出て行け!」と書いた看板を設置した。多文化尊重のおかげで、建国以来のキリスト教精神を持つ、古き良きアメリカが失われつつあるという気持ちなのだろう。「今こそ『物言わぬ多数派』が信念のため立ち上がる時」というジョリー氏には、たくさんの賛同メッセージが寄せられたという。
これに対し『宗教からの自由財団』のアニー・ローリー・ゲイラー氏は、「宗教を信じていない人、教会と国家の分離を信じる人は自身が歓迎されていないと感じてしまう」と述べ、「信じる人は身内に、少数派や無宗教の人はよそ者にしてしまう」ジョリー氏の行動に懸念を示した(WP)。
◆PCは機能しているのか
アメリカの名門リベラル大学である、ハバフォード大学の公式ニュースサイト『Bi-College News』は、PCとは、何が適切なのかという我々の考えにチャレンジする、常に進化する概念だと説明。大胆な意見は正しさの枠をはみ出してしまうのか、「不快」と「社会的に許容できる」の線引きはどうすればいいのか、言葉の監視は強すぎるのか、そしてPC自体が機能しているのかという質問を投げかけている。
筆者は数年前、PCに配慮しイギリスの女性にMs.の敬称を使ったところ、「Mrs.でお願いします」と言われた。理由を尋ねたところ、「ずっと、Mrs.だから自分はこのままでいたい。Ms.には違和感がある」とのこと。筆者のアメリカ仕込みのPCは、彼女にとって不快なものだったことを知り、申し訳なく思った。他を尊重し多様性を重んじる社会は素晴らしいが、政治的に正し過ぎるのは、問題かもしれない。