「ここはだれの場所?」会田家とおかざき乾じろ作品が示す“グローカルなアート”

『おとなもこどもも考える ここはだれの場所?』展が、東京都現代美術館で開催されている。会田家が出展している文部科学省への批判を書いた作品が物議を呼び大きな話題となったが、ここでは会田家とおかざき乾じろ氏の作品を比較したい。

◆日本語と英語
 アートと仲良くなるとき、そこにはことばがある。アートとことばの関係は、絵本の挿絵と物語のように、お互いがお互いを補い合っている。まずは、(問題とされた)会田家の『檄文』と、おかざき氏のウォール・テキスト『はじまるよ、びじゅつかん』を比較する。

 そこには言語設定による対象の違いがある。日本語で書かれた会田家のテキストは、日本の社会にアプローチしている。一方、日本語と英語で書かれたおかざき氏のテキストは、世界中にアプローチしていると言える。ここから取り出せるシンプルな図式は、日本に限定した「ローカルな会田家」と地域を限定しない「グローバルなおかざき乾じろ」だ。

「作品撤去要請問題」が浮上した直後の会田誠氏によるツイートは、8000リツイートを超える特異な反響をみせた。この問題は新聞や雑誌、新幹線のニュース、国外メディアなどでも取り上げられた。一方のおかざき氏は、会田家のような展開はいま現在みられていない(その可能性は十分にあるにもかかわらず)。

 ことばにおける両者の比較は、逆説的な展開を示している。それは、ローカルな問題を扱う会田家がグローバルになり、グローバルな問題を扱うおかざき氏がローカルになっているという状況だ。

◆滞在型と通過型
 アートに触れるとき、そこには場所がある。アートと場所の関係は、料理と器のように、組み合わせと配置によって変化する。次に、両者における展示室の空間設計の違いにフォーカスを当てる。

 会田家は、おとなとこどもを隔てない「滞在型」であるのに対し、おかざき氏は、おとなとこどもを隔てた「通過型」である。会田家は、おとなとこどもが住む日本の社会を、家族の視点から問いかけたローカルな空間と言える。展示室全体に作品が散在し、滞在時間は長く設定されている。一方おかざき氏は、おとなが住む世界を、こどもの視点から問いかけたグローバルな空間と言える。おとなは、展示室の大部分を占める仮設美術館に入ることができないため、滞在時間は短く設定されている。

「ザイオンス効果」と呼ばれるものがある。これは、接触回数が増えるにつれて好意度が高まるという人間の傾向を示している。空間設計における両者の比較は、もうひとつの逆説的な展開を示している。ローカルな会田家は、滞在型による高いザイオンス効果によってグローバルになり、グローバルなおかざき氏は、通過型による低いザイオンス効果によってローカルになっているという状況だ。

◆グローカルなアートがそこにある
 以上のような両者のふたつの比較は、会田家におけるローカルのグローバル化と、おかざき氏におけるグローバルのローカル化を浮き彫りにしている。それは、アートが世界に伝わる時のことばは、日本語と英語の問題、ローカルとグローバルの問題ではないということだ。そして、アートは、接触時間によって伝わり方が変わることを教えてくれている。あるいはむしろ、ローカルとグローバルが入り乱れた状態こそがここにみてとれる。この複雑さを捉えるときに鍵となるのが、ローカルとグローバルを組み合わせた「グローカル」という考え方だ。

 内容と形式の異なる両者のアプローチが、卓越したアートの実践であるという点で同じということは、展覧会場で確かめることができる。「社会はだれのもの?」「美術館はだれのもの?」あるいは、そもそも社会とは何なのか。美術館とは何なのか。「だれ」とはだれなのか。そのような問いの投げかけと応答が、アートの現場で渦巻いている。ローカルとグローバルが交差し、他では体験できない、グローカルなアートがそこにある。

Text by 緑川雄太郎