VRでの殺人は違法にした方がよい

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著:Angela Buckingham(ベルリン拠点のライター、”The Colonel”など著作)

 まずナイフを手に取るか、あるいは割れた瓶のネック部分に手を伸ばす。次にそれを相手に向かって突き刺し、格闘する。相手が抵抗するときの肉体的緊張が感じられ、さらに相手を圧倒したいという欲望が芽生える。自分の身体に対する相手の身体の密度、その血のぬくもりが感じられる。今相手はあなたを見上げていて、最後の瞬間にあなたと視線を合わしている。

 何十年もの間、SF作家は仮想現実(VR)を夢見てきた。それは今や実現し、おそらく、実際に魂を傷つけることなく、誰かを殺すという完全な肉体的経験を可能にした。FacebookがOculus Rift(オキュラスリフト)の開発に継続的に取り組んできたように、最近ではGoogleが、さらなる没入型の仮想世界の構築を促進するために、視線追跡のスタートアップであるEyefluence(アイインフルエンス)を購入した。映画「バードマン」(2014年)と「レヴェナント」(2015年)で有名なAlejandro GIñárritu監督とEmmanuel Lubezki撮影カメラマンは、次のプロジェクトは短いVR映画になるだろうと発表した。

 しかしこの新しい形のエンターテインメントは危険である。我々は没入型の仮想暴力の影響に対して疑問を抱き、研究し、管理しなければならない。人を殺すという経験を現実的にシミュレーションできるようになる前に、仮想現実での殺人は違法にしなければならない。

 私は楽しみを邪魔するためにこのようなことを言っているのではない。 約20年間映画やテレビに携わってきた者として、映画制作の技法は、観客への影響を最大にするためだけにあるということを非常に強く感じている。監督はひとつひとつの言葉のイントネーションを変えることを俳優に求め、一方編集者は場面に合うムードや雰囲気を追求しながら、一生懸命に一本の映画を秒単位にカットする。

 だから私はVRの魅力と、視聴者にとってよりリアルな物語を作り出すVRの可能性を理解している。 しかし我々は、映画とゲームの両方が紛争と解決の話を作って繁栄しているという事実を考慮しながら、その誘惑を分析しなければならない。 殺人や暴力はドラマにとって頼みの綱であり、一人用シューティングゲームはゲーム業界で最も人気があるもののひとつである。

 これらすべての流血がもたらすものははっきりしていない。ハリウッド映画がより流血シーンが多くなり、暴力的なビデオゲームが人気を集めるにつれて、米国での犯罪率は低くなっている。シューティングゲームは鎮静剤になりうるという調査もあれば、暴力行為の原因となる危険因子になりうる可能性を示唆している研究もある。 (おそらく、Netflixシリーズのハウス・オブ・カード(House of Cards)(2013年-)に出てくるフランク・アンダーウッド(Frank Underwood)のように、ビデオゲームはそのどちらにもなりうるのだ。)オハイオ州立大学の心理学者であるブラッド・ブッシュマン氏(Brad Bushman)とそのチームの研​​究によると、1日に20分、3日間暴力的なゲームをプレイした学生は、プレイしなかった学生よりも攻撃的になり、共感的ではなくなる。アイオワ州立大学の心理学者であるクレイグ・アンダーソン氏(Craig Anderson)とシドニーのマッコーリー大学の心理学者であるウェイン・ワーバートン氏(Wayne Warburton)との研究によると、侵略者の位置を想定する反復行動や双方向性、そして暴力に負の影響を与えないこと全てが、攻撃的行動を増幅するゲーム体験の側面である。ワシントン海軍工廠銃撃事件のアーロン・アレクシス(Aaron Alexis)、サンディフック小学校銃乱射事件のアダム・ランザ(Adam Lanza)、ノルウェー連続テロ事件のアンデルス・ブレイヴィーク(Anders Breivik)といった銃乱射事件の犯人はみな、異常なほどのゲーマーだった。

 エンターテイメントが私たちに何をするのかという問題は、最近になって出てきたものではない。 プラトン(Plato)の時代から、芸術の道徳はつねに議論の問題であった。 哲学者のジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)は、孤立した座席に座っている受動的な観客など、劇場の軋轢を生じさせ、堕落させる可能性を疑っていた。その代わりに、彼はコミュニティの団結を促す参加的フェスティバルを促進し、喜びにわく群衆をひとつにまとめるために活発な儀式を行った。 しかし今初めて、テクノロジーが、プラトンの洞窟の壁面で点滅しながら、芸術とパフォーマンスによって創造される世界と、それを知覚する現実世界との境界を爆破しようとしている。 そのような没入型参加の結果生まれるものは、複雑かつ不確実であり、危険に満ちあふれている。

 人間は体現された存在であり、それはすなわち、私たちが考え、感じ、知覚し、行動する方法が、私たちの体の一部として存在するという事実に結びついているということを意味している。 自己重要性感覚の能力、つまり身体の状態を識別し、それを自分のものと認識する能力をハイジャックすることによって、VRは私たちが演じているキャラクターとの識別を高めることができる。「ゴムでできた手の錯覚」が示したのは、適切な条件において、不活性な人工装具が実際の手であるように感じることが可能であるということである。最近の2012年の調査によると、歪んだ仮想アームが通常の3倍の長さに伸びて、身体の一部になるのを人は認識できることが分かった。

 VRにおいて、この状況から他人の身体の中に実際に住みつくまであとわずかである。 しかし、ドイツの哲学者であるトーマス・メッツィンガー氏(Thomas Metzinger)が警告しているように、そのような完全な同一化の結果がどうなるかは知られていない。 仮想の具現化によって、それに対して脆弱性のある人は精神病を引き起こしたり、あるいは長期間離れていた後にその実体に戻ったときに、そこから疎外感を覚えたりする危険性がある。メッツィンガー氏によれば、仮想環境内にいる人々は自分のアバター(分身)の期待に従う傾向がある。2007年のスタンフォード大学の研究者たちが行った調査において、これは「プロテウス効果」と名づけられた。つまり、より魅力的なバーチャルキャラクターを持つ人々は他の人々とより親密になり、背の高いアバターを割り当てられた人々はより自信を持って積極的に交渉にあたったことがわかっている。 仮想領域において発達したこういった行動が、現実世界の領域に流出する危険性がある。

 没入型の仮想環境において、殺すとはどんな感じだろうか? 確かに恐ろしく、衝撃的で、ときにはスリリングな体験でさえある。 しかし、殺人犯を具現化することによって、我々は暴力をより欲望を掻き立てるものにし、残虐性の中で自分自身を鍛え、攻撃を正常化するというリスクを犯している。 空想の世界を構築する可能性を考えたとき、私の映画製作者としての血が騒ぐ。しかし我々は人間として慎重にならなければならない。 我々は、心理的な影響を研究し、道徳的および法的な意味を考慮し、行動規範を確立する必要がある。 仮想現実は、我々が存在できる形態の範囲と、そのボディを使ってできることを広げてくれる見込みがある。 しかし、我々の心を形作るのは我々が物理的に感じているものなのだ。仮想現実内の暴力が私たちをどのように変えてしまうのかを我々が理解できるようになるまでは、仮想殺人は違法にしておく必要がある。

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Translated by yoppo

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