“助けの手を出す、何も言わない選択もある” ネットで加熱する親叩きに海外から疑問の声も

 北海道の子供置き去り騒動では、SNSを中心に親への批判が過熱した。海外でも同時期に、動物園のゴリラ舎に子供が落ち、救出するためゴリラが射殺される事件が発生し、親の監督責任を巡ってネット上で大論争となっている。このような状況に、そこまで非難すべきなのか、と欧米のジャーナリストが意見を述べている。

◆子供は親の所有物?人権軽視と批判
 北海道の事件は海外でも大きく取り上げられており、とりわけ「置き去り」という親の行動が問題視された。APは、日本の文化は子供の人権強化を促進するのではなく、むしろ子供はほぼ親の所有物として考えているように見えると批判している。

 さらに、日本の親は子を溺愛し、母親はいつも家にいるという典型的なイメージとは違い、子供の置き去り、児童虐待ははるかに多くみられるとも述べ、今回のケースも監督放棄という深刻な問題の可能性もあるという東京都の福祉関係者の言葉を紹介して、親の責任を問うような論調となっている。

◆ネットのターゲットになる「親」たち
 このような親の非ばかりをクローズアップする姿勢に対して疑問を投げかけるジャーナリストもいる。

 ウェブ誌『Mashable』のウェブ・トレンド・レポーター、ヘザー・ドックレイ氏は、「置き去り」という言葉を、CBS、ガーディアン紙、ワシントン・ポスト紙などの大手メディア、そして自社『Mashable』までがこぞって見出しに使ったが、親は完全に子供を置き去りにして養育放棄をする意志はなかったと述べ、メディアの言葉の選択に問題があったことを示唆する。

 そして「置き去り」という罰に反応した見ず知らずの人々が、少年の親に対し、「バカ」、「恐ろしい」、「虐待」など、厳しい怒りの言葉をソーシャルメディア上でぶつけたことに同氏は違和感を持っている。同時期にアメリカのシンシナティ動物園で起きたゴリラ射殺事件で、ゴリラ舎に落ちた子供の母親の監督が甘かったと批判されていることにも言及し、ネットの怒りは、「親」という特定の馴染みのあるグループに向けられていると指摘している。

 ジャーナリストのレイチェル・ジョンソン氏も、頭を下げて謝罪を続ける少年の父親の今にも腹を切るのではと思うような姿や、射殺されたゴリラの写真に付いた「性悪女が自分の子供をちゃんと見てなかったから俺は殺された」というキャプションを見て、批判を浴びる親たちに同情を示す(デイリー・メール紙)。

 同氏は近くの郵便ポストに手紙を投函するために家を出たすきに息子がいなくなり、結局パトカーに保護されて事なきを得たという自身の経験に触れ、北海道の事件も動物園の事件も、どの親にも起こりうることだと説明。悪いことは常に悪い親にしか起こらないのではなく、ほとんどの親がほとんどの場合、危機をなんとか切り抜けているだけだと述べる。子供に何かのことがあれば、一番苦しみ悲しむのは親なのであり、「親叩き」に何の意味があるのかと、同氏は主張している(デイリー・メール紙)。

◆ソーシャルメディアの怒りは独りよがり
 ドックレイ氏は、少年の父親は公に謝罪したが、ソーシャルメディア上の人々はまるで自分たちが被害者であるかのように謝罪に感謝するか、まるで聞かなかったかのように批判を続けるかのどちらかだったと述べ、「親を育て教育してやる」という、ソーシャルメディアの大好きな仕事がなされたと述べる。

 同氏は、息子を危険にさらす父親の行為は明らかに間違っていたとしながらも、ソーシャルメディアも他人の気持ちを理解すべきだという。親とは、感情や憤り、報いの上にある、ストイックで超人的な神の創造物であることを期待されているが、だれでも過ちは犯すもので、子供にかっとなったり、いじわるな言葉を掛けたりなどして後悔することだってある。それなのにソーシャルメディアの怒りは、事件が持つ文脈やニュアンスを察する忍耐がなく、独りよがりであると述べている。

 素早く正義の一打を打つことほどエンドルフィン(多幸感をもたらすとされる神経伝達物質)を生産するものはないという同氏は、だからと言って、より相手を思いやる行為が取れない訳ではないと述べ、非難するだけでなく助けの手を差し出す、事件は当事者に任せ自分自身の失敗を顧みる、状況の持つニュアンスを考慮する、または単に何も言わないという選択もあるとしている(Mashable)。

Text by 山川 真智子