80年代から90年代にかけてニューヨークに住んでいた日本人なら、誰も聞いたことがある「アカネサロン」。日系美容室の先駆け的サロンのオーナーのヨシ・アカネヤさんは、1970年代にニューヨークに移住し、美容室を始めた。海外に移住するということは、今でもとても勇気のあることだけれど、当時は今よりもさらに日本人の少ない時代。そんな中、英語も出来ない状態でアメリカへ渡り、どうやって「自分の城を作るということ」を叶えたのか。ニューヨーク州郊外、ハーツデールにあるヨシさんのサロン近くにある、昔よく来ていたというダイナーでお話を伺った。

お客さんとのコミュニケーションを大事にしているヨシさん。サロンに訪れてるお客さん全員に話しかけていた。| Photo by Saka Matsushita

ヨシさんはどちらのご出身ですか?

大阪生まれ、大阪育ちです。1960年代に学生でした。当時はビートルズやローリングストーンズにどっぷりはまっていて、自分も高校時代はバンド活動をしていました。大阪のクラブなんかでライブをしていたんですよ。そんな中、1968年にビートルズが解散。当時の若者はみんな「これからどうしよう」という思いになったんですね。私自身も悩み、グラフィックデザイナーになろうと、高校を卒業後大阪のデザイン学校に入学しましたが、すぐに「これじゃない!違う!」と思い、入学から3日で休学しました。休学後、とりあえず自分探しの旅に出ようと、東京に行きましたが、東京でも「何かが違う」と感じました。そこでアメリカに行こう!と思ったんですね。

そこでいきなりアメリカですか!

私の母が、アメリカ人の方と再婚してアメリカに住んでいたので、とりあえず母に会いに行こうと思っていました。お金を貯める為に、大阪の実家に戻り、そこから1971年に母を訪ねてアメリカに行きました。半年くらい滞在したのですが、楽しかったですね。ヒッピー仲間と遊んだりして。けれども段々とホームシックになってしまい、日本に帰ることにしました。ただ日本に帰っても、やることがない。どうしようと考えていた際、仲良しだった仲間の一人が、アメリカには当時日本では珍しかったユニセックスのヘアサロンがあるということを教えてくれました。ヴィダルサスーンがセンセーショナルだった時代で、私も美容師になりたいと思ったんですね。

Photo by Saka Matsushita

私自身、元々ロック人間なので、若い頃はなかなか好きな髪型にしてもらえる場所がなく悩みました。ミックジャガーの髪型にしたかったのに、理容師さんはわかってくれない。友達のお母さんが見かねて連れて行ってくれた美容室でも、なんだか違う。そういう経験から、男のロン毛のかっこいいロックなヘアスタイルを作ってみたいな、という気持ちがあったんですね。そういうのも美容に入った理由としてありますね。

それで帰国後、美容学校に行かれたんですね。

はい。帰国しすぐに美容学校に入学し、卒業後は日本の美容室に就職しました。ただそこでも「違うな」をまた感じ始めてしまいました。お客さんがVOGUEなどの写真を持ってくるのですが、仕上がりがやはり同じにならない。アシスタントながらにプロセスを見ていても、なんだか違うんだろうな、としっくりこないものを感じていました。そこで師匠に「3年ほど勉強にいってきます」と伝え、美容師だった当時の妻と二人で再びアメリカに行きました。

再びアメリカに行き、まずどうされたのですか?

最初はアメリカの美容学校に3ヶ月通いました。その後、美容学校の校長先生からの推薦状を手に、美容室がたくさんあった34丁目から58丁目に行き、全ての美容室に履歴書を持って回りました。全部断られましたね(笑)「履歴書ありがとう!」と言われながら連絡がこなかったりね(笑)それでも懲りずに、また同じことをしていたら遂に37丁目にある美容室がアシスタントとして雇ってくれたんです。当時の給料は一週間で32ドル34セントでした。低いけれど、当時はまだビザもなかったのに雇ってくれたことが嬉しかったです。その後もたくさんの美容室で働きました。自分の求めているものがわかっていたので、落ち着ける美容院を探してまわり、最終的に57丁目にあったジューイッシュと日本人のパートナーがやっている美容室に勤めました。オーナーの妹がヴィダルサスーンでスタイリストとして働いていた方でした。とても良い方で、一週間に一回くらい夜に私にサスーンテクニックをレッスンしてくれたんです。それが僕の原点ですね。

そこからアカネサロンを開くことになったんですね。

29歳の頃、家を買ったんです。アメリカは頑張れば買えるんですよね(笑)。そんな時に同じ歳の友達が私に「城を持て」と言ったんです。城というのは家ではなくて、仕事場のことだったんですね。それでよし!やってやろう!という気になりました(笑)当時は、妻も私も、お互いが働いてた美容室のトップスタイリストになったくらいの頃だったので、お店を出そうということになりました。最初に見つけた場所の家賃が当時2500ドル。かなり高額で、僕たちには払える金額ではありませんでした。そんな頃、フォート・リーにたくさんの日本人駐在員が暮らし始め、駐在員に向けたビジネスが流行るのではないかという話が出てきていました。僕は同じ時期に出来ていた、日本人向けのケーブルチャンネルに「日本人の美容師のヨシ」として宣伝されていたこともあって、それを見た方からフォート・リーで美容室をやらないかというお話をいただいたんです。当時のフォート・リーには日系の本屋、毛皮屋、レストランはあったのですが、美容室はありませんでした。最初は悩んだのですが、家賃は900ドル。自分が出せる金額でした。そういうこともあり、やってみて、だめだったら辞めてもいいという気持ちで、お話を受け、サロンをオープンしたんです。それが30歳の頃ですね。

オープン後の反響はいかがでしたか。

それが思った以上に繁盛しました。ニューヨークにこんなに日本人がいるのか、というほどのお客さんがいらっしゃいました。私は今まではアメリカ人のお客さんばかりを担当していたので、日本語で「いらっしゃいませ、どうなさいますか」というのがとにかく恥ずかしかったですね。関西弁丸出しで、ギクシャクしていたのですが、ありがたいことに駐在員方の間では、「ピンクの靴を履いて、短いハサミを持った人」として話題になったそうです。

全てがトントン拍子でいっているように聞こえますが、実際はどうだったのでしょうか。

29歳で家を買い、30歳でお店をオープンって確かにトントン拍子に聞こえますよね。でその後、33歳で離婚して、全部失ったんです(笑)。色々あり、当時の妻が日本に帰国してしまい、その後1年間はどん底でした。毎日飲み歩き、ボロボロになりました。でもどん底も、下まで行くと、いつか上がるもんなんですよね。ボロボロの生活をしていたのですが、これでは駄目だと気づき、日本帰ってちゃんと円満離婚をし、家も店も売り、財産を分けました。その半分残った財産で、今のハーツデールにアカネサロン再びオープンさせたんです。そんな頃、アメリカ人の今の妻と出会い、可愛い娘も産まれたんです。

なぜハーツデールを選ばれたのですか?
当時、ニュージャージーには日系のメーカー勤めの方が多く住んでいましたが、ウェストチェスター(ハーツデール)にも日本人が多く、主に銀行や商社の駐在員の家族が住んでいたんです。実はニュージャージーのお店をやっている時に、ウェストチェスターにも出したいな、と思っていたのですが、当時の妻は、美容に燃えていた自分がビジネスマンになって行くのが嫌だったみたいで、出しませんでした。その後再びお店を出そうと思った時には売ったお店が「アカネサロン」という名前でまだ運営していたので、ニュージャージーには出せなかった。それで以前から気になっていたハーツデールにしたんです。

そうなんですね。その後はどのようにキャリアを広げられたのですか。

その後、アカネサロンをやりながら、別のサロンに投資をしていきました。うちのサロンから巣立った人のお店もありましたし、そうでないものも。経営を始めてからは、たくさんの辛い思いもありましたし、裏切りも経験しました。小さいサロン一つを経営する上では経験しないようなことばかりでしたが、それも今では良い経験だと思っています。

日本人の美容師が殆んどいない時代だったのに、本当に行動力がありますね。

英語が話せないコンプレックスは最初はもちろんありました“Hi, How are you?”の後は、何もわからないなんてこともしょっちゅうあったんです。年下のスタイリストの人に怒鳴られたりもし、悔しい思いもありましたが、仕事で見せるしかないと思いましたね。今の人がアメリカにくる場合は、最初に学生ビザで渡米し、語学学校に通われてから美容学校に行かれる方が多いので、みなさん綺麗な英語を話されますよね。私の英語は独学なのでブロークンイングリッシュ(Broken English)。今でも妻や娘に「あなた、何年アメリカにいるのよ」なんていって笑われます。それでもこうやってアメリカで仕事も出来ていますしね!なんとかなるんですよね!(笑)

最後にヨシさんの解釈で美容師とは何かを教えてください!

美容師ってなんですかね、エンターテイナーだと思っています。デザイナーじゃなくて、エンターテイナー。自分の好きなデザインだけをお客さんに提供するのは、美容師としては若いと思いますね。それは、自分とスタイルがあった人なら素敵とおもってくれるかもしれないけれど、そうでない人は嫌ですよね。だから瞬間的にその人の好みを見抜き、提供すること、それが美容師の仕事だと思っています。自分の好みのスタイルでもないかもしれない、それは自分のデザインじゃない。でもそれでもお客さんが喜んでくれればそれが一番良い。

パーソナルエンターテイナーですよね。そういう考えに到達するまでは、10年くらいかかりました。やはり自分のやりたいことがあったからこそアメリカに来たので、それをマスターしたらそれがやりたくて仕方がなかったんですよね。だから勉強にきたのに!と思いましたが、途中でこれじゃだめだな、と気づき、お客さんに合わせるというテクニックが身につきました。10年かけてやっと技術者と言えると感じれました。現在60代ですが、これからもまだまだ、新しいことに挑戦していきたいと思っていますよ!


Akane Salon

7 East Hartsdale Avenue
Hartsdale, NY 10530
914.948.0216 | 914.948.0217

All photos by Saka Matsushita

松下沙花 (まつしたさか)

アーティスト。
長崎生まれ。ニューヨーク、トロント、横浜育ち。
Wimbledon School of Art(現ロンドン芸術大学ウィンブルドンカレッジオブアート)の舞台衣装科で優秀学位を取得。その後Motley Theatre design Courseで舞台美術を学ぶ。大学院卒業後はロンドンにてフリーのシアターデザイナーとして映画、舞台、インスタレーションプロジェクトのデザインを手がけた。2012年より個人プロジェクトの制作を始め、現在は東京をベースに活動を続けている。
www.sakamatsushita.com
Instagram: @sakamat