ボスニア・ヘルツェゴヴィナ南部のワイナリーを巡った後で、首都サラエヴォに滞在した。東西の文化が混在する街、サラエヴォは「ヨーロッパのエルサレム」と呼ばれている。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナのほぼ中央、サラエヴォ峡谷の丘陵地帯に位置するサラエヴォは、1500〜2000メートル級の山々に囲まれた街だ。1984年に開催された冬季オリンピック競技の会場は、サラエヴォを取り囲む山々だった。散策していると、あらゆる方向に急な坂道が現れ、街がすり鉢状の地形であることがよくわかる。街の一番低いところを流れるミリャツカ川の、市庁舎に近いところにあるラテン橋は、1914年、オーストリア大公フランツ・フェルディナンド・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンと妻のゾフィー・ホテクが暗殺された現場だ。この事件が、第一次世界大戦の引き金を引いた。

サラエヴォ市内
宿泊したホテルは、フェルハディア通りのオーストリア・ハンガリー帝国時代の建物だった。石造りの中層建築が並ぶ通りで、ヨーロッパの都会の旧市街のようだ。その通りを東へ進んでいくと、サラツィ通りと名前が変わり、あたりの風景が一変する。空が急に広くなり、低層の木造建築が続き、ところどころにモスクのドームやミナレットが見える。かつて旅したイスタンブールの街路に、時間と空間を超えて、迷い込んでしまったかのようだ。気がつくと、オスマン帝国の面影を残す、バシュチャルシャと呼ばれるムスリム地区の広場にいた。ボスニア・ヘルツェゴヴィナは、オーストリア・ハンガリー帝国が統治する以前は、オスマン帝国の支配下にあった。
- バシュチャルシャ
- バシュチャルシャ地区
- バシュチャルシャ地区
- バシュチャルシャ地区
- バシュチャルシャ地区
- バシュチャルシャ地区
- バシュチャルシャ地区
バシュチャルシャ地区の広場には、セビリと呼ばれるオスマン・トルコ様式の美しい水飲み場があり、周囲のカフェのテラスでは、人々がボスニアン・コーヒーとおしゃべりを楽しんでいる。ボスニアン・コーヒーは、トルコやギリシャで飲まれている、細かく挽いた豆を煮出すコーヒーだ。取っ手のついた小さなピッチャーに入っていて、小さなカップに上澄みを注いで飲む。

坂のカフェ

坂のカフェ
古来から陸路における西洋と東洋の交差点、交通の要所だったサラエヴォを、キリスト教文化も、イスラム文化も通過した。そのような街だったからこそ、今もなお、ヨーロッパ地区とムスリム地区とが隣り合わせに存在している。東と西の文化は共にサラエヴォの街の核を成しており、滞在中は、1日に何度も、東洋と西洋を行き来することになった。

ラテン橋
異なる祈りが響き合う街 4つの宗教施設が徒歩圏に
サラエヴォは多民族の街だ。多数派を占めるのはイスラム教徒であるボスニア人(ボシュニャク人)である。彼らは、15世紀から19世紀にかけて、オスマン帝国下でイスラムに改宗した南スラブ人の子孫だという。このほか、カトリック教徒であるクロアチア人、セルビア正教徒のセルビア人などが共存している。宗教は異なるものの、ボスニア語、クロアチア語、そしてセルビア語は、ほぼ同一の言語だという。
ボスニアン・ムスリムたちの拠り所である数々のモスク、バルカン半島では最大級のカテドラルであるセルビア正教会のサラエヴォ大聖堂(生神女誕生大聖堂)、主にクロアチア人の拠り所であるカトリックのサラエヴォ大聖堂(イエスの聖心大聖堂)、ユダヤ人のためのサラエヴォ・シナゴーク。4つの宗教の祈りの場は、どれも、互いに徒歩で10分とかからない距離にあった。
- セルビア正教会 サラエヴォ大聖堂
- カトリックサラエヴォ大聖堂
- サラエヴォシナゴーク
- バシュチャルシャ・モスク
門が開かれ、観光客が出入りしていた、ガジ・フスレヴ・ベグ・モスクの庭に入ってみた。1531年に建てられたという美しいモスクは、イスタンブールのスレイマニエ・モスクの設計者、ミマール・スィナンが手がけたという。庭の泉には、靴を脱ぎ、足を清めている男たちがいた。彼らの姿が、神社の手水舎で手や口を清める日本人の姿に重なった。
ガジ・フスレヴ・ベグ・モスクは、セルビア正教会の大聖堂やキリスト教の大聖堂と異なり、庭の造りがゆったりとしていて、木々が生い茂り、居心地がよい。街歩きの途中に、一息つくことができるオアシスのような場所だった。

ガジ・フスレヴ・ベグ・モスク

ガジ・フスレヴ・ベグ・モスク
1990年代の悲劇 サラエヴォ包囲戦の痕跡
サラエヴォに滞在したのは、1992年から1996年にかけての「サラエヴォ包囲戦」のことを知りたかったからだ。1984年にドイツに移住したので、冷戦時代の東西ドイツ間、東西ベルリン間の行き来を体験し、1989年のベルリンの壁の崩壊と翌年の東西ドイツの統合、ユーゴスラビア内戦、そしてソビエト連邦の消滅は、遠くはない場所での出来事だった。
当時の情報源は、新聞、ラジオ、テレビだけで、ヨーロッパの一角で起きたユーゴスラビア紛争の状況がはっきりとはわからず、恐怖を覚えることもあった。冷戦時代、ユーゴスラビアはソ連の衛星国ではなく、自主管理社会主義国であったため、西ドイツ在住者にとって、人気の休暇先だった。そんな身近な国で内戦が起こったからである。

ボスニアヘルツェゴヴィナ議会とサラエヴォローズ
1991年から1992年にかけて、分離独立しようとするクロアチア、スロヴェニア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナと、分離に反対するセルビアとの間で紛争が相次いだ。ボスニア・ヘルツェゴヴィナの場合は、1992年に独立宣言したものの、やがてボスニア紛争が起こった。スロヴェニアとクロアチアは独立を達成したが、ボスニア人、クロアチア人、セルビア人が共存し、絶対的な多数民族がないボスニア・ヘルツェゴヴィナの内戦は泥沼化した。
1992年4月から1996年2月まで、約4年近くにわたり、首都サラエヴォはセルビア人勢力が設立したスルプスカ共和国軍、その背後のユーゴスラビア人民軍に包囲され、攻撃を受け、市民に対する虐殺行為が行われた。攻撃には正規軍だけでなく傭兵もいた。犠牲者数はおよそ12000人だといわれる。民族主義が極端な方向へと舵取りされ、市民は日常生活を失い、死の恐怖にさらされた。いつ、どこから銃撃されるのか、あるいはミサイルを撃ち込まれるのかがわからない。そのような極限状況で、サラエヴォの人たちが、どうやって生き延びてきたかを知りたかった。
フェルハディア通りの1本北側のムラ・ムスタフェ・バシェスキエ通りを、西へと向かって歩いていく途中、簡素な屋根で覆われた青果市場があった。マルカレ市場と呼ばれ、どのスタンドも、旬の野菜や果物を積み上げている。訪れた8月下旬は、ラズベリーとイチジクが甘い香りを漂わせていた。

マルカレ青果市場

ボスニア風水餃子 クレぺ
市民の生命線だったこの市場は、1994年2月5日、一瞬にして殺戮の現場となった。市場にいた人たち68人が爆撃で命を落とし、200人が負傷した。市場は非戦闘地域であったにもかかわらず、攻撃を受けたのである。市場には現在も、ミサイルの着弾跡が残っており、赤い樹脂でコーティングされている。その形状をバラの花に見立て、サラエヴォ・ローズと呼ばれている。自分が今、立っているこの場所が、「マルカレ虐殺」の現場だということに戦慄を覚えた。
- マルカレ青果市場に残る爆撃の跡
- マルカレ市場ホール
- マルカレ市場ホール
青果市場の斜め向かいには、重厚な造りのマルカレ市場ホールがある。こちらでは肉や肉の加工品、乳製品などを販売していた。ホールの裏手の道路にもサラエヴォ・ローズが見つかり、外壁には死者たちの名前が刻まれ、たくさんの花が供えられていた。意識して歩くと、サラエヴォ・ローズはあちこちに見つかり、そこで命を落とした人のことを思わずにはいられなかった。
サラエヴォ・ローズは、虐殺されたユダヤ人がかつて住んでいた場所を示す、歩道に埋められたモニュメント「つまずきの石(シュトルパーシュタイン)」を思い起こさせた。しかし、サラエヴォ・ローズの場合は、そこがまさに虐殺の場であるという特別な重みを伴って、見るものに訴えかけてくるのだった。

マルカレ市場 ホールの裏
2つの博物館へ
宿泊したホテルの近くに「人道に反する犯罪とジェノサイドの博物館1992-1995」と言う博物館があった、ここでは、第二次世界大戦終結以降、無実の人々に対して行われた大規模な凶悪犯罪について展示をしている。

ジェノサイド1992-1995博物館
古い住宅を利用した博物館は、入口も階段もうす暗く、かつて暮らしていたドイツの古い住宅と似たような間取りだった。展示室に佇みながら、30年前に同じ空間で、恐怖に怯えて暮らしていた人たちのことを想った。当時、住民たちは自宅の前の通りを横切るだけでも、狙い撃ちされる可能性があった。
この博物館では、1995年7月、サラエヴォの東150キロのところにある、スレブレニツァで起こった大量虐殺についての詳細も知った。それはセルビア人勢力が設立したスルプスカ共和国軍らによる、推定8000人を超えるボスニア人の虐殺事件だった。スレブレニツァは国連軍が管理する非武装地帯であったが、このような悲劇が起こったのである。
博物館を出て、街を歩くと、盆地であるサラエヴォが、地形的にいかに不利だったかがよくわかる。周囲の丘からは、街の様子が手に取るようにわかる。砲弾は、そのような高台から打ち込まれたのだった。
重い衝撃を抱えたまま、トラムに乗って「歴史博物館」にも足を運んだ。「包囲されたサラエヴォ」展の展示物を見ているうちに、包囲戦の間、電気、水道、暖房のない生活を余儀なくされたサラエヴォ市民の日常生活の様子も少しづつ見えてきた。会場には、サラエヴォ包囲時の市民の住居モデルがあり、彼らが、人道支援で届いた食品缶や圧力鍋、金属板やトイレのタンクなど、ありあわせの材料で手作りした「ストーヴ」がいくつも展示してあった。暖をとり、煮炊きをするための「ストーヴ」がなければ、彼らが冬を乗り越えることはできなかった。
- 歴史博物館
- 歴史博物館
2つの博物館では、数多くの「サラエヴォ包囲戦」の写真にも向き合った。マルカレ市場の爆撃直後の写真もあった。当時の青果市場には屋根はなく、全く無防備な青空市場だった。そこに120mm迫撃砲弾が着弾したのだと知った。
「第二次大戦後の欧州で最悪の紛争」。サラエヴォ包囲はそう言われている。展示されている写真、死者たちの遺品の一つ一つを観ているうちに、包囲時代のサラエヴォ市民の限りない恐怖と苦悩に少しずつ巻き込まれていくような気がした。
1995年のデイトン合意で、ボスニア人とクロアチア人が、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を、セルビア人がスルプスカ共和国を、それぞれのテリトリーとすることになった。ボスニア・ヘルツェゴビナには現在、2つのシステムが存在する。武力による戦争は終結したが、国は分裂状態にある。
- 銃弾跡の残る建築
- 銃弾跡の残る建築
- 銃弾跡の残る建築
- 銃弾跡の残る建築
穏やかで成熟した街
サラエヴォの多くの建造物には、今なお無数の銃弾の痕跡が残っている。街歩きをしていると、サラエヴォ・ローズだけでなく、あちこちの建物の壁が、そこで生々しい戦闘があったことを思い起こさせる。サラエヴォは、今も傷だらけだ。しかし街は穏やかで、東の正教文化やイスラム文化、西のカトリック文化など、あらゆる宗教文化に開かれている。言葉では言い尽くせない苦難を乗り越えた、成熟した大人に出会っているような気持ちにさせてくれる街だった。
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岩本 順子
ライター。ドイツ・ハンブルク在住。
神戸のタウン誌編集部を経て、1984年にドイツへ移住。ハンブルク大学美術史科修士課程中退。1990年代は日本のコミック雑誌編集部のドイツ支局を運営し、漫画の編集と翻訳に携わる。その後、ドイツのワイナリーとブラジルのワイン専門誌編集部で研修し、ワインの国際資格WSETディプロマを取得。著書に『おいしいワインが出来た!』(講談社)、『ドイツワイン・偉大なる造り手たちの肖像』(新宿書房)、ドイツワイン・ケナー資格試験用教本内のテキスト『ドイツワイン・ナビゲーター』などがある。
HP: www.junkoiwamoto.com




















