スイスの玄関口チューリヒは国際的な金融都市として名高い。レストランは目移りするほどあり、味も雰囲気も価格も、国外観光客を満足させる店は多い。スイスを旅したら本場のチーズ料理も、チューリヒの伝統料理の牛肉のクリーム煮『ツーリッヒャー・ゲシュネッツェルテス』も試してほしい。そして、スイスの大地で育った野菜をたっぷり味わえる、一風変わった食体験も是非おすすめしたい。
今回紹介するのは旧市街にある、小さく居心地がよい高級レストラン「Rechberg 1837」だ。ローカルな食材のみを使ったコース料理と、豊富なスイス産ワインが評判を呼んでいる。営業は夜のみで、コース料理は4品目または7品目。野菜料理が中心で、4品目には肉料理が1皿入り、7品目は魚料理と肉料理が1皿ずつ入る。
料金は1名に付き108フラン=約1万8千円から160フラン=約2万7千円まで(曜日とコースによって多少異なる。なお、6月下旬からはランチの営業を再開する)。
値が張るにもかかわらず、オープンから約10年経った現在、店の存在感はますます高まっている。4月のある日、初めて味わった料理の写真とともに、Rechberg 1837の魅力に迫ってみよう。

グリルしたエルサレム・アーティチョーク(和名は菊芋。見た目はショウガで、アーティチョークとは異なる野菜)に、スイスチャード(不断草。ホウレン草の仲間)とニンニクの風味のソースが添えられた一品
1837年に建てられた建築物でくつろぐ
レストランの建物が完成したのは1837年。180年以上もの歴史の重みと内装の気品が溶け合って高級感が漂う。同時に、大地を思わせる濃い茶色、植物の生命力をイメージさせるような深いグリーン、随所に見える白い色が緑葉樹や白樺を想像させ、自然の中にたたずんで、ほっと一息ついている気持ちにもなる。
1837年という年は、レストランにとってとても大切な年だ。当時は化学肥料を用いて野菜類を栽培したり、効率を重視して家畜を密集し大量に飼育する“農業の工業化”は普及していなかった。季節外れの作物が年中食べられ、あらゆる食材が輸入されることもなかった。その時代に戻り、環境問題を引き起こしたり、家畜および人間の健康に影響を与えるような食材は用いず、「持続可能な方法で育てられた動植物を仕入れて料理を作り、提供する」というのが店のコンセプトだ。
また基本的に当時すでにあり、今も栽培されている野菜や果物を使うようにしている。この先進的なアイデアは4人の友だち同士の間であたためられ、店は2016年にオープンした。
胡椒やオリーブオイルなし~国産の材料のみをゼロウェイストで調理
コース料理という枠組みは決まっているが、どんな内容になるかは材料の仕入れ先の品揃え次第だ。すべて、チューリヒ近郊から仕入れている。
提携農家では、バイオダイナミック農法(サステナブルな農法の1つ)や、作物収穫後の土壌が以前よりも改善されることを目指すリジェネラティブ農業(環境再生型農業)を実践している。魚は、チューリヒ湖で季節と魚の数を見て生態系に配慮しながら捕獲している漁師、そして三世代続く家族経営の養殖場から調達している。養殖場では、17面の池(うち16面が自然の池)で2~3年かけてマスを育てているという。なお、スイスには海がないため、同店では海で取れる魚介類は使わない(スーパー等では輸入の魚介類は豊富に揃う)。

鮮やかなオレンジ色のマス(養殖魚。スイスの有機認証を取得)のサラダは、皮もミックス。ケール(アブラナ科の野菜)、皮が黒いブラック・ラディッシュ(黒大根)の酢漬け、ラディッシュ、手作りの黄色いマヨネーズで、色のメリハリも楽しめた。ブラック・ラディッシュはヨーロッパでは風邪によい食べ物といわれている
Rechberg 1837では、マスタードシードやキャラウェイといった地産のスパイスは使うが、胡椒やシナモンなど、ヨーロッパでは自家栽培できないスパイスは使わない。南ヨーロッパから輸入され、スイスの家庭でもよく使われているオリーブオイルも使わない。人工的な食品添加物も一切加えていない。バターやマヨネーズも新鮮な材料を混ぜただけ。
和の料理にもインスピレーションを得ているといい、味噌や醤油も自分たちで作って使っている。主に残った手作りのパンや大麦に、友人から調達している麹を混ぜるそうだ。
環境への配慮も徹底している。素材のあらゆる部分を料理に用いてフードロスをほとんど出さない。店にいた設立者の1人、Raphael(ラファエル)さんに聞くと「その通りです。食材のほぼすべての部分を使い切るように工夫しています」と教えてくれた。訪れた晩の肉料理の付け合わせにも、そんな工夫が隠されていた。てっきり、小麦粉が主体だと思った「長方形の焼き団子」は、残った手作りのパンを野菜と混ぜて焼いたものだった。
「これは、私たちの店のシンボルといえる調理方法です。フードロスを創造的に解消する方法ですね。ヨーロッパではフードロスの30%をパンが占めています。こうして野菜と一緒にパンを活用することはとても簡単だということをみなさんに知ってもらうには、絶好の機会だと思います」(Raphaelさん)

牛の頬肉の煮込みは、ナイフがなくても切れるほど。長方形の焼き団子と甘味があるセルリアック(根セロリ)のピューレに、深紅のトレビス(ラディッキオ/赤チコリ)で華を添えたボリュームある一品
メニューの説明がミニマムなのも印象的だ。7品目なら、「ビーツ/ホースラディッシュ/カシス」「ヴァシュラン(チーズ)/ジャガイモ/リンゴ」といった具合に、一品ごとの主要な素材群が7つ並んでいる。料理を決めてから食材を集めるのではなく、「あくまでも食材が主役で、食材優先で料理を考える」ためだ。
どのゲストも「どんな料理かな」とワクワクし、究極に地産の一品が目の前に出てくるたびに「わぁ」と驚くに違いない。
食材のことを考えながら食べる体験

赤紫色が特徴的なビーツ(ホウレン草の仲間)は、ヨーロッパではお馴染みの野菜。すりおろした薄いクリーム色のホースラディッシュ(西洋ワサビ)やブラックカラント(カシス/黒房すぐり)をあしらった煮込み料理。
料理を食べると、2つのことに気付く。1つは、使われている量に関わらず、私はケールです! 私はビーツです!と素材が自己主張し、それぞれの味が舌にしっかりと伝わってくること。
もう1つは、全体を通して味がまろやかなこと。クリーミー、ほんのり甘い、塩気がある、辛い、と味の違いははっきりしているが、「優しいテースト」という言葉がぴったり合う。そよ風が顔に当たったり肌を優しくなでられて気持ちがほぐれるように、料理を一口、また一口と運ぶと口にも胃にも穏やかな刺激が広がっていく。
一ひねりも二ひねりも加えられたこの店の料理は、ふだん家で作る野菜料理やほかの多くの店で味わえるものとは一線を画す。「野菜類ってこんなふうに調理できるのだな」「斬新な味だ」と感動を覚えた。
また「地産」という基準は食器選びにも当てはめている。たとえば、ひと目でハンドメイドだとわかる愛らしいカトラリーは、地元のアーティストが手掛けた。
ワインはすべて、スイス全国の健康的な農園から
スイス人はワインが大好き。スイスのほとんどのレストランにはワインを置いているのではないだろうか。Rechberg 1837で出しているワインは、すべてスイス産。全国各地の少量生産のワイナリーから取り寄せており、常時300種類をストックしている。これらのワインは小売店では手に入らないそうだから、Rechberg 1837で飲めるのは貴重なチャンスだ。そして、それらのワイナリーのどれもがサステナブルな方法でブドウを育てているのも、とても興味深い。
ワイナリーのオーナーが手描きした絵のエチケットが美しい白ワイン『Mirage d’Arvine』は、有機農法に従っている。ここのモットーは「開けたら飲み切るボトルを生産する」こと。別のワイナリーの白ワイン『Alloy』はろ過されていないため濁っており、添加物も一切含んでいないナチュラルワインだ。「エコロジカルなスタイルで高品質のワインを生産すること」をモットーとしている。
昆虫とスイスの国旗が目を引くオレンジワイン『TAM-TAM 2022』はバイオダイナミック農法に基づき、殺虫剤、ミネラル肥料、除草剤を使用していないワイン園で作られた。写実的な鳥をエチケットに描いたロゼワイン『Kuckuck Pinot Noir Saignée』もブドウの木や畑のすべての生き物が健康であるようにとの考えから、殺菌剤や除草剤などの農薬を一切使っていない。
自然派ワインの生産は世界的なムーブメントになっていると聞く。ワイン全体で見れば、その製造量はまだ極少量とはいえ、スイスでも自然回帰志向でワイン作りに励む人たちが一定数いるのだと知った。
自然派ワインは、どれも非常に個性的だといわれる。各料理とのペアリングは客が決められるが、今回はすべて店にお任せした。ジャガイモとリンゴの生地に、溶かしたヴァシュラン・チーズをたっぷりとかけた一品には、チューリヒ近郊で生産された『Truttiker Essentia』が出された。リースリング種とシルヴァーナー種のブレンドで、あらゆる種類のデザートやフォアグラに合うデザートワインだ。アプリコットやハチミツの風味のこのワインは、甘味のあるヴァシュラン・チーズに最適だった。
追い求めるのは利益ではなく「環境への愛情」のシェア

パースニップ(甘い白人参)を使った冷たいデザート。コーヒーが飲みたくなるが、コーヒー豆は地産できないため、Rechberg 1837ではコーヒーは提供していない
Rechberg 1837は、 ミシュランガイドが2021年度版からサステナブルなガストロノミーに与えている認証の『ミシュラン・グリーンスター』を授与されている。また、ゴ・エ・ミヨ(Gault&Millau)で「20点満点中15点」を取得している。こうした世界的に信頼を得ているレストランガイドの高評価に誘われ、Rechberg 1837に足を運ぶ人たちはもちろんいるだろう。
ベジタリアンの人たちの増加も、店の人気を高めているかもしれない。スイス最大のビーガンおよびベジタリアン団体Swissvegの調査によると、スイスでは年々、男女共に菜食主義者が増えており、2024年は国民の5%強相当の30万8千人がベジタリアンだったという。加えて、ビーガンも5万人いた。また、肉をあまり食べないようにした人たちは175万人もいたという。
とはいえ、この店は小さいし、営業は夜のみだ。ちゃんと利益が上がっているのだろうかと気になったが、後日見つけたスイスの公共放送局の番組(2023年放映)で設立者の4人はこう語っていた。
「目指しているのは高い収益ではありません。スタッフ全員が快適に働き暮らしつつ、経営を続けることです。私たちの店は単に食事を提供する場所ではなく、文化を伝える場所だと思っています。ここで自然や食材にしっかりと目を向けるひと時を過ごし、特別な食体験がもたらす感情を楽しんでいただけるはずです」
Raphaelさんによると、食べ残しとキッチンから出る極少量の廃棄食材は、再生可能エネルギーの1つであるバイオガスの原料にしているとのこと。仕入れ先や調理法だけでなく、終わりまで環境と食の関連性について熟慮している。そんな経営者たちの「環境への思いやり」は料理を通じて私の心に染み込んだ。
この店で1度食事をした人たちは、食の面から生態系を守ることの大切さを再認識し、その食体験をほかの人たちにも広めるべく、家族や友人たちと再来店するのではないか。Rechberg 1837のように自然がもたらす恵みについて深く考えさせる店は、今後どれくらい増えていくだろうか。もっと増えるといいなと思いながら、味わった食事とワインのことを何度も思い起こした。
営業日:火曜~土曜
12:00~15:00(長期的に限定していたランチ営業を、2025年6月下旬から通常化)
18:00~23:00
*事前に知らせれば、7品目コースはベジタリアンまたはビーガン料理に変更してもらえる。
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取材協力:
スイス政府観光局 www.myswiss.jp
チューリヒ観光局 https://www.zuerich.com/en
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Photos by Satomi Iwasawa
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岩澤里美
ライター、エッセイスト | スイス・チューリヒ(ドイツ語圏)在住。
イギリスの大学院で学び、2001年にチーズとアルプスの現在の地へ。
共同通信のチューリヒ通信員として活動したのち、フリーランスで執筆を始める。
ヨーロッパ各地での取材を続け、ファーストクラス機内誌、ビジネス系雑誌/サイト、旬のカルチャーをとらえたサイトなどで連載多数。
おうちごはん好きな家族のために料理にも励んでいる。
HP https://www.satomi-iwasawa.com/