風光明媚なスイスでは、自然の中にあるカフェやレストランが周囲に馴染むように建てられているのが印象的だ。チューリヒ郊外の高台のレストラン「ブエッヒ(Buech)」は、そんな周囲の自然とのハーモニーの素晴らしさが際立つ好例だ。まだ隠れ家的な存在で本当は秘密にしておきたいが、その魅力を紹介しよう。
築100年以上の優雅なレストラン
チューリヒ中央駅から電車で20分の町、ヘルリベルクはチューリヒ湖の右岸にある。チューリヒの人たちは、南方からの日光が降り注ぎ、ワイン用のぶどう畑が広がるこの右岸一帯に「ゴールドコースト」というニックネームを付けている。オーストラリアのゴールドコーストのようにサーフィンはできないが、夏季には朝から夕方まで湖で遊泳する住人たちが絶えない。小型ボートを所有する人たちは、湖上でのひと時を楽しむ。このエリアは繁華街への好アクセスは保ちつつ心安らぐ自然の近くで生活できることから、高級住宅地として人気を得ている。
ブエッヒまでは、ヘルリベルク駅からバスで坂を上り、その後少し歩く(計15分ほど)。建物の赤い色と、赤いパラソルが周囲の緑によく映えている。なだらかな傾斜を屋外席から見下ろす風景は、まさにインスタ映えのスポットだ。ぶどう畑と湖、そして遠くの山々もはっきり見えて、気分は爽快。バスに乗ってでも、ここに来た甲斐があると感じられるはず。
このレストランは、アーティストのアーノルド・ゼンハウザーが100年以上前に建てた。ハイキングコースの途中にあり、その頃も付近を歩く人たちがお腹を満たす憩いの場となっていた。
レストランは、2021年終わりに「リビングサークル」という5つ星ホテルグループに加わった。リビングサークルはチューリヒ市内のシュトルヘンとヴィダーの2軒、ブエッヒの対岸の湖沿いに建つアレックス・レイク・チューリヒなどのラグジュアリーなホテルを運営している。
ブエッヒの屋外席は、窓がたくさんあって採光が抜群の木造の小屋(イベント向きで要予約)もある。ここは夢のようなプライベート空間になっている。3つの小屋は大中小のサイズで、それぞれ16人、9人、6人座れる。テーブルクロスのデザインや飾りの切り花は、随時変えている。小屋は開放しているので、使用中でなければぜひ見ておこう。
屋内席も落ち着いた色調でデコレーションも洗練され、いつまでもいたくなるほど居心地がいい。飾られている絵はジョルジュ・ブラック、アンリ・マティス、フアン・ミロ、アンディ・ウォーホルといった今でも多くの人に愛される有名な芸術家たちが手掛けたもの。
また、繊細さが心を打つスイス人画家、アドルフ・ディートリッヒ(1877-1957)の作品もたくさんある。貧しい農家の7人きょうだいの末っ子として生まれたディートリッヒは、生涯をスイスの生家で過ごした。身近な環境の様子を鋭い観察力と手の込んだ色遣いで描き続け、ナイーブアート(素朴派 とくに美術教育を受けていない画家のアート)を代表するアーティストとして知られている。
普通は美術館で観賞するような、こうした質の高いアート作品が見られるレストランはなかなかお目にかかれない。食事の気分をさらに盛り上げるように、自然も建築もアートも美しいスタイルを保持しているのは、ホテルグループのリビングサークルが「ゲストに思い切り質のいい時間を過ごしてほしい」と考えているからだ。そんなブエッヒの噂は徐々に広まっている。以前は近隣の人たちが主なゲストだったが、「今は、国外の観光客もたくさんいらっしゃいます」とレストランのスタッフが教えてくれた。
伝統と新しさが味わえる料理
ブエッヒでは、お肉をたっぷり味わいたい人もベジタリアンも喜べる一品を用意している。肉料理は、スイス発祥といわれるコルドンブルー(薄い肉にハムとチーズを挟んで揚げた料理)、薄く伸ばした仔牛肉に衣をつけて揚げたシュニッツェル、牛肉のタルタルステーキなど、スイス人に好まれているものは定番としていつも提供している。そのほか、2~3か月ごとに変わるメニューがある。
今回私はスイス産のラム肉を選んだ。キヌア、枝豆、先の尖った甘いピーマン、パセリの風味がさわやかなチミチュリ(アルゼンチン発祥のソース)、バルサミコ酢を添えてあり、ボリューム満点。3切れのお肉は大満足のおいしさで、赤ワインと共にじっくりと味わった。ちなみに、この一品は56フラン(約9500円)。値は張るが、クオリティの高い食材を追求した結果だ。
魚料理も随時変わり、味噌を使ったサーモンフィレ、オープンで焼いたスズキ、レッドフィッシュとブラックタイガーなどが並ぶ。ベジタリアンは、ホウレン草のラヴィオリ、グリーンアスパラガスとアンズタケ入りのリゾット、ブッラータ(イタリア原産のフレッシュチーズ)のサラダといろいろ選べる。前菜のメニューでは、ホームメードのドレッシングでいただく、シンプルなレタスのサラダも人気だ。スープはいつも3種類から選べるのも嬉しい。
ワインは国外産もあるが、リビングサークルが所有するスイス南部ティチーノ州の農園のワインや、レストラン周辺のぶどう畑を120年以上前から所有しているシプフ・ワイナリーのワインなど、スイス以外で味わえるチャンスが少ないスイス産がおすすめ。
食事の間に写真を撮ったりメモを取ったりしていたら、2時間が経っていた。幸福感に包まれていると、時の流れは早い。デザートはトルテやケーキ、ムースやフルーツ、アイスクリームなどがあり、チーズは1種類から5種類まで選べる。私はコーヒーのみを注文したが、小さいボールいっぱいにクッキーとゼリー菓子が付いてきて、最後まで行き届いた気遣いに心が温まった。
レストラン後方の農場にも癒される
何度か訪れたブエッヒだが、今回はもう1つ、初めて行きたい場所があった。ブエッヒから数分歩いた農家「シュラットグット」だ。レダゲルバー家が長年続けてきたファミリービジネスは、現在3世代目のアンドリンとドメニックの兄弟が経営している。
ここには、乳牛が数十頭、鶏が950羽いる。この農家もリビングサークルと提携しており、ブエッヒを含めてリビングサークルのホテルやレストランに製造したチーズや収穫した卵を配達している。鶏の飼育は餌や水を厳選し、鶏小屋(床暖房と換気システムあり)と屋外に十分なスペースが確保されている。訪問した日は暑かったが、牧草地にもたくさんの鶏が動き回っていた。良質な卵を作るには、鶏が屋内外を自由に行き来できる放し飼いの方がいい。
ヨーロッパでは、家畜の飼育環境に配慮し、家畜がストレスや苦痛を受けずに健康的に生きられるようにする“アニマルウェルフェア”の考え方が広まっている(日本の採卵鶏の飼育は、かごにたくさんの鶏が詰め込まれ、鶏の身動きが制限されるバタリーケージが大多数)。
卵は農園内のショップで買うことができる。ショップでは農園ホームメードのパンやジャムやシロップ、牛肉(ハンバーグなど)やチーズも売っている。国内産のビスケットやパスタ類、新鮮なリンゴやナシ、それらの果汁などもある。
ショップの商品でとりわけ目を引いたのは、農園の牛乳を使って作った自家製のアイスクリームとシャーベットだ。10種類以上が揃っていた。農園のイチゴを使っているイチゴ風味を食べたら、新鮮さが口いっぱいに広がった。成分表を見たら35%がイチゴで、思わず納得した。
アイスクリームとシャーベットはリビングサークルのホテルやレストランでも食べることができ、ゴールドコーストにあるレストランや、チューリヒ市内のデパートやレストランなどにもある。農園での滞在は短かったが、ここでも湖を望む景色とローカルフードに癒された。
今後、ブエッヒを訪れる観光客はさらに増えるかもしれないが、素朴かつ高級感にあふれた雰囲気は変わることはないだろう。町の郊外にある、こうした素敵な場所を探して行ってみるのも旅の本当の面白さかもしれない。
・毎日オープン(ランチタイム後、夕食時まで一旦閉店)
・チューリヒ中央駅からはS6線またはS16線を利用。ヘルリベルク-フェルトマイレン駅が最寄り駅。駅からレストランまで歩くと約40分かかる。
・レストラン内の絵画は、付近にあるギャラリー・ブルーノ・ビショフベルガーからの貸与。スイス人オーナーのブルーノ・ビショフベルガー氏(現在84歳)は、アンディ・ウォーホルと懇意にしていた。ブエッヒは、ビショフベルガー氏のお気に入りのレストランだという。
SCHLATTGUT GMBH – FAMILIE LEDERGERBER
・ファームショップ(無人のため、支払いはショップ内の箱に現金を投入する)は、毎日7時~19時開店
・5つ星ホテル「アレックス・レイク・チューリヒ」の宿泊客には、ホテルからレストラン・ブエッヒまで専用ボートとタクシーによる往復サービスがある。
取材協力:スイス政府観光局
Photos other than a press image: by Satomi Iwasawa
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岩澤里美
ライター、エッセイスト | スイス・チューリヒ(ドイツ語圏)在住。
イギリスの大学院で学び、2001年にチーズとアルプスの現在の地へ。
共同通信のチューリヒ通信員として活動したのち、フリーランスで執筆を始める。
ヨーロッパ各地での取材を続け、ファーストクラス機内誌、ビジネス系雑誌/サイト、旬のカルチャーをとらえたサイトなどで連載多数。
おうちごはん好きな家族のために料理にも励んでいる。
HP https://www.satomi-iwasawa.com/