カンボジア旅行といえば、アンコール遺跡や遺跡に近い街、シエムリアップがよく知られているが、今回の旅の記事では、メインの観光地にはあまり触れずに、カンボジアの概要や、首都プノンペンのストリートの雰囲気をお届けする。
未来の発展が期待されるカンボジア
カンボジアの歴史は古くに遡る。現在カンボジアがある地域には少なくとも4万年前から人が居住していたということが考古学資料によって明らかになっているそうだ。8世紀後半、ジャヤヴァルマン2世がジャワから帰還し、802年に現在のアンコールの地で王朝(クメール王朝)の建国を宣言した。その後、12世紀の最盛期には現在のカンボジア、タイ、ラオス、ベトナム南部にまで広がる帝国として栄え、王朝は15世紀ごろまで続いた。1351年にタイで建国されたアユタヤ朝が勃興し、1431年のアユタヤ朝の侵攻によって首都アンコール・トムが陥落。1450年ごろに首都がプノンペンに移管した。
タイやベトナムといった近隣諸国で紛争が続いていた19世紀後半、カンボジアの国王はフランスに保護を求め、1863年に実質フランスの植民地となった。1950年代まで続いたフランスの統治を経て独立後、少しの間は平和がもたらされたものの、1960年代後半からはベトナム戦争に巻き込まれ、その後、共産主義を推進したクメール・ルージュ(ポル・ポト派の武装勢力)が台頭。ポル・ポト政権によって迫害と大量虐殺が行われた。
かつてのクメール朝が栄え、豊かな歴史背景と文化背景があるカンボジアだが、ポル・ポト政権が推進した「ゼロ年」の政治イデオロギーのもとに、文化や教養は否定され、破壊と殺害が行われた。現在、カンボジアの人口は約1700万人で、人口の90%がカンボジア人(クメール人)であるとされている。その平均年齢は27.6歳(CIAファクトブック、2023年推定値)と、東アジア・東南アジア地域の中ではもっとも平均年齢が低い国の一つである。同地域で最も高い日本の49.5歳と比べると、人口動態の差が歴然である。
また経済指標を見ると、国民1人あたりのGDPは4,400ドル(CIAファクトブック、2021年推計値)で、日本の約10分の1程度。東・東南アジア地域でトップのシンガポールと比べると5%にも満たず、国連のカテゴリーにおいてカンボジアは後発開発国のリストに入っている。しかしながら、2022年のGDP成長率は5.2%で、今後も同様のペースでの経済成長が見込まれている。
あちこちでビル開発が進むプノンペン
昨今のカンボジアは中国資本などによる高層ビル開発が散見される。同時に、開発途上で放置されてしまったビルも少なくない。たとえばカンボジア南西部の湾岸都市、シハヌークビルは2010年代後半ごろから中国人による投資と不動産開発が進み、カジノのメッカとなった。しかし、新型コロナウイルスのパンデミックとオンラインギャンブルに対しての規制によって、活動は一気に冷え込み、現地で作業していた中国人労働者たちは帰国した。結果、多くの建物が空となり、建設途中のものも放置され、街はゴーストタウンと化した。政府は2026年までを目処にこうした建物に新たな投資家を呼び込むか、解体するかという方針を打ち出しているとのことだが課題は大きい。
プノンペンに関しては、開発途中で放置されているような物件もあるが、ゴーストタウンという状況ではない。中国の経済成長の鈍化もあり、パンデミック収束後も中国人投資家らは必ずしもまだ戻ってきてはいないという現地の声も聞くが、あちこちで高層ビルの開発が進んでいる。筆者が滞在する高層アパートの目の前でも、平日週末関係なく朝から晩まで建設工事が行われている。
しかしながら、建設されたビルの占有率は高くないようだ。プノンペンのリバーサイドの一等地にもコンドミニアムのような高層住宅が建ち並んでいるが、地元住民にとっては家賃が高すぎることもあり、ほとんどが空き部屋となっている状況。中にはパリの凱旋門とシャンゼリゼ通りの建物を少しデフォルメして再現したようなアパートが並ぶ住宅街もある。富裕層向けのアパートとして建設されたようだが、入居率は非常に低い。ビルとビルの間に設けられた贅沢な遊歩道については、週末などは縁日のようなイベントが開催されているようだが、当初の計画とは異なる空間活用ではないかと思われる。
建築ツアーから学ぶ、プノンペンの営み
さまざまな文化のレイヤー、歴史とコンテンポラリーな営みを感じとるには、プノンペンの街を歩き回るのがベストだ。一方で、バイクやトゥクトゥク(三輪モーターバイク)などのさまざまな乗り物が往来する中、排気ガスや暑さも気にすることなく、車道の端っこを歩き回るというのは、残念ながらあまり快適ではない。そこでおすすめなのが、自転車人力車を活用しながら市内の建築スポットを回る、クメール・アーキテクチャー・ツアー(KAツアー)である。
2003年から開催されているKAツアーは、歴史的意義のあるプノンペンの建築スポットを人力車と徒歩で見て回る約3時間のツアー。非営利団体が運営し、建築家と建築学生がガイドを務める。現在、展開されているツアーは、市内の中心街に残るフランス植民地時代に建てられた建築物などをメインに見て回るものと、カンボジアの独立以後に建設された「ニュー・クメール・アーキテクチャ」の中で、現存している代表的なものを見て回るものという2種類のツアーが週替わりで毎週日曜日に開催されている。
ニュー・クメール・アーキテクチャーの動きを牽引したのが、カンボジアで最も有名な建築家であるヴァン・モリヴァン(Vann Molyvann)。彼は1946 年に奨学金を得てフランスに留学し、パリで建築を学んだ後、独立間もないカンボジアに帰国。直後、ノロドム・シハヌーク王子によって公共建築の主任建築家として任命される。彼は議会、スポーツコンプレックス、国立劇場、会議場など60以上の公共建築を手がけた。クーデターでシハヌーク政権が倒されたことで、スイスに亡命。1991年にユネスコ職員として帰国した。クメール・ルージュによって、彼の功績もスケッチもその多くが破壊され、残されたものも劣化し、解体されてしまったものもある。今、残されている代表的な建築は、オリンピックスタジアムや会議場、外国語学校などである。
筆者が参加したのは、市内の中心部を回るというツアーで、5つの主要な建物が隣接するエリアからスタート。1895年に建設された郵便局の隣には1930年に建設された警察署跡があり、逆隣には現在はレストランになっている、1910-20年代に建設されたインドシナ銀行跡がある。そして、向かいには1890年にグランドホテルとしてオープンし、1910年にマノリスと名前が変更されたホテル跡、さらにその横には現在はカフェになっている1889年に建設された(船便)輸送センターが並ぶ。
郵便局の内部は改装されているが、現在も郵便局として使われている。また銀行跡や郵便局跡は、レストランやカフェに生まれ変わっている。一方で、警察署跡については、ほぼ廃墟状態になっていて、一部は植物に飲み込まれつつある。また、ホテル跡については、クメール・ルージュ後に戻ってきた人々が占拠し、そのまま住宅として使われている。廊下と部屋の仕切りも曖昧で、ホテル跡とはわからないぐらいの雑居空間になっている。
次に訪問したエリアは、細い路地にひしめく住宅街だが、よく見るとそこには1913年に建設されたお寺や、1910年頃に建設されたチャペルの構造や屋根を見ることができる。ガイドの話によると、クメール・ルージュでプノンペンを強制退去させられた市民たちが、ポル・ポト政権下の混乱状態の中、空いている建物を占拠することで住居を確保していったという経緯があるという。
そしてツアーは、内戦後の混乱から派生した住宅事情がある場所とはまったく違う雰囲気のコロニアル建築の訪問へと続く。1924年に建設された国立図書館、そして1929年に建設されたラッフルズ・ホテル・ル・ロイヤルである。ラッフルズホテルは、現在も営業を続けている高級ホテルで、過去にはジャクリーン・ケネディやオバマ大統領なども滞在したそうだ。
さらには1932年に建設されたトロピカルモダニスト様式の駅舎や、フランス人建築家が手がけたセントラル市場などへも訪問。駅舎の空間はモール化されるという計画などもあったようだが、そのプロジェクトは休止となり、がらんとした空間が広がっている。一方、セントラル市場は現在もアクティブで、宝飾品からお土産品までさまざまな商品の売買が行われている。
建築ツアーを通じて体感することができるのは、歴史のレイヤーが重なり、さまざまな文化と営みが共存している有機的な都市の空気感だ。廃墟と新しく開発が進むビルという、一見、相容れないような存在が、プノンペンのインクルーシブな雰囲気を生み出している。その景観から感じられる寛容さや包容力が、他の東南アジアの都市にない、この場所だけの不思議な居心地の良さを作り出しているのかもしれない。
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All Photos by Maki Nakata
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Maki Nakata
Asian Afrofuturist
アフリカ視点の発信とアドバイザリーを行う。アフリカ・欧州を中心に世界各都市を訪問し、主にクリエイティブ業界の取材、協業、コンセプトデザインなども手がける。『WIRED』日本版、『NEUT』『AXIS』『Forbes Japan』『Business Insider Japan』『Nataal』などで執筆を行う。IG: @maki8383