筆者は、ドイツとブラジルを往復するようになって20年が経つ。この間、何度も首都ブラジリアを訪れ、訪れるたびに、この街が少しずつ好きになっていった。何もなかった大地に突如誕生した実験的な都市ゆえに、伝統ある都市が持つ陰影に欠け、無機質的な印象があるが、ブラジリアは建設当初から時代の先端をゆくモダニズム建築都市として、世界に類のない魅力を放ち続けている。遷都から60年以上を経た現在、樹木が豊かに育ち、人々が二世代、三世代にわたって定住し、独自の文化が生まれ、確かな歴史が感じられるようになってきた首都を巡ってみよう。
羽ばたく飛行機都市
連邦直轄区ブラジリアの総面積は、およそ5800平方キロメートル。東京都と埼玉県を合わせたくらいの大きさだ。人口は約310万人で、東京都の5分の1程度。ブラジリアにいる時には、あまり意識することはないが、都市は標高およそ1100メートルの高地に造られている。空に近いこの都市に、羽ばたく鳥、あるいは飛行機のフォルムを想起させる中心街がある。
東南東を向いた「飛行機」は、前方のパラノア湖と呼ばれる人工湖のほとりに着地しているかのようだ。「機体」は全長約10キロメートル、全幅約15キロメートル、「機首」に政府機関があり、尾翼方向に緑地帯が敷かれ、大聖堂、美術館、図書館、劇場などの公共建築物が点在する。「主翼」は居住区で、実際に「北翼(アザノルチ)」「南翼(アザスル)」と名付けられている。翼の付け根に巨大なバスターミナルがあり、周辺にビジネス街が配置されている。主要な交差点は立体交差、「南翼」には地下鉄が走る。2022年のデータによると、巨大な「飛行機」の乗客数はおよそ24万人となっている。
従来、ブラジルの主要都市は大西洋沿岸地域にあった。都市を内陸に移転すべきだという考えは、植民地時代からあったという。ポルトガル人の支配者たちは、沿岸地域の要所を外敵から保護したいと考えていたのだ。その後、ブラジルは独立を果たし、リオデジャネイロに帝国政府が置かれ、続く共和政時代に新首都の建設案が浮上しはじめた。それを実行に移したのが、JKの愛称で親しまれた、ジュセリーノ・クビチェック大統領(1902-1976)だった。
「50年の進歩を5年で!」をスローガンに、大統領選に出馬したクビチェックは、1956年に大統領に就任すると、工業化とインフラ整備に力をいれるとともに、新首都の建設に着手した。新首都に決まったゴイアス州の未開の土地は、赤い酸性の土に覆われ、耕作に向かないセハードと呼ばれる灌木林地帯だった。クビチェックの任期中に遷都が実現するよう、すべてが急ピッチで進められた。
新首都は、かつての宗主国ポルトガルの影響から脱皮したものでなければならなかった。ブラジルの新たなアイデンティティの構築、内陸地域への人口の分散と開発が新時代の遷都の目的だった。
1957年、クビチェック政権は都市計画の公募を行った。選ばれたのは、建築家で都市計画家のルシオ・コスタ(1902-1998)のデザインだった。コスタはブラジリアの都市設計を一手に引き受けることになり、公共建築のほとんどを、コスタが抜擢したオスカー・ニーマイヤー(1907-2012)が手掛けることになった。
フランス生まれのコスタは、海洋技師だった父の仕事の関係で、少年期までをヨーロッパで暮らし、15歳の時にブラジルに渡った。彼は、リオデジャネイロの国立美術学校で建築を専攻し、在学中にモダニズム建築の父、ル・コルビュジエ(1887-1965)のスタイルに傾倒していく。コスタは後に、国立美術学校の学長になるが、リオ生まれのニーマイヤーはコスタの教え子で、卒業後はコスタの建築設計事務所で働いていたのだった。
話は少し前後するが、1930年代末、コスタがリオデジャネイロの旧教育保健省ビルの設計を担当することになった時、彼はル・コルビュジエをコンサルタントに招聘した。設計チームにはニーマイヤーも加わった。1943年に竣工したこのビルは、ル・コルビュジエ、コスタ、ニーマイヤーの3者が出会い、実現した、ブラジルモダニズム建築のはじまりを告げる作品だった。
建設開始から4年とたたない1960年4月、新首都ブラジリアが産声をあげ、遷都が行われた。クビチェックは自身の任期中に、本当に遷都を成し遂げたのだった。
クビチェック政権の進歩的な空気は、当時の文化にも熱をもたらし、前衛芸術や前衛詩、音楽においてはボサノヴァが生まれた。ニーマイヤーも、このムーブメントと無関係ではなかった。ヴィニシウス・ジ・モライスの戯曲「オルフェウ・ダ・コンセイサォン」の初演(1956)では、ニーマイヤーが舞台美術を担当している。
機首から尾翼へ、飛行機のボディを歩く
コスタが提案したブラジリアのパイロットプランは、1933年に行われた近代建築の国際会議で採択された「アテネ憲章」の原則を踏まえたもので、この憲章には、ル・コルビュジエのビジョンが反映されていた。当時、世界の大都市は、工業化によって環境汚染が進み、伝統的な街並みは過密となり、人々の生活環境は悪化する一方だった。アテネ憲章は、都市生活者の状況を改善するための様々な提案を明示したもので、そのような都市づくりは、ブラジリアでこそ可能だった。
コスタが描いたフィールドで、ニーマイヤーは持てる才能を存分に発揮していった。たった1人の建築家が、新首都の主要建築群のほとんどを手掛け、首都の姿形をゼロから創り出すなど、前代未聞の出来事だった。
「機首」にある三権広場を囲んで、西側の連邦議会(1958-60、着工年−竣工年、以下同)、南側の最高裁判所(1956-60)、北側の大統領府(1958-60)がコの字形に対峙している。機首の先端である東側は視界が開かれ、湖岸の緑地の中に大統領官邸(1957-58)が建つ。官邸の近くにはパレスホテル(1958)が建つ。
連邦議会の造形は、いつ見ても惚れ惚れする、垂直に伸びる2本のタワー、テーブルに置かれたスープ皿のような下院議会と、スープ皿を伏せたような上院議会、帯を垂らしたような軽やかなスロープ。鉄筋コンクリートから、かくも美しいフォルムが生まれることにはっとする。
ブラジリアの広く青い空に、ニーマイヤーの純白のコンポジションはよく映える。装飾的なものをすっかり削ぎ落とした無垢な造形は、ヨーロッパ建築の伝統を想起させない。大統領府や大統領官邸、最高裁判所の白いポルティコには、カーテンやハンモックのような布地感があり、ギリシャやローマの古典建築のポルティコとは一線を画した、ニーマイヤー独自の造形だ。
遷都の段階で完成していた主要建築はこれくらいで、残りは工事現場だった。ニーマイヤーは遷都後、軍事政権下でパリに亡命していた時期があったものの、引き続き首都をデザインしていた。国会議事堂の西側には、外務省(1960-70)と、司法省(1962-72)が向き合い、続いて各省庁ビルが整列し、その先に大聖堂(1958-70)、国立美術館(1999-2006)、国立図書館(1962-2008)、国立劇場(1960-66)が続く。中には、21世紀に入ってから完成した建築もある。
とりわけ印象的な建築が大聖堂だ。ヨーロッパの大聖堂のような尖塔はなく、内向きにカーブした16本の尖った支柱が出会い、天に向かって花のように開こうとしている。聖堂の天井はステンドグラスで覆われ、内部は光に満ちている。カテドラルの傍の洗礼堂は、卵を思わせる滑らかで優しいフォルム。上院議会に似た国立美術館も斬新で未来的だ。美術館は内も外もニーマイヤーならではの曲線のアクセントがつけられている。
さらに西へ進むと、コスタが設計したテレビ塔が聳え、国立スタジアムを過ぎると、さらに2つのノイマイヤー建築が現れる。1つは急流のようなスロープと、中庭のテントのような日除けのフォルムが印象的な先住民族記念館(1987)、もう1つは、機体の最後尾に置かれたジュセリーノ・クビチェック記念館(1979-81)だ。大地に横たえた棺を連想させる建物の中には、クビチェックの墓が置かれている。ブラジリアの全景を後方から見渡すように立つ、オノリオ・ペサーニャ作のクビチェック像の台座のカーブは、風をいっぱいに受けたヨットの帆のようだ。これはニーマイヤーが初めて制作したオブジェだという。
ニーマイヤー建築に見られる、生き生きとスイングしている曲線、水の流れのような雄弁なスロープは、彼の故郷リオの、いくつもの丘がある風景を思い起こさせる。ニーマイヤー自身も、直角や直線、硬くて柔軟性のない線よりも、自由で官能的な曲線、山や川、波や雲のかたち、そして女性の身体の曲線に、より魅力を感じると述べている。
主翼の居住ブロック スーパークアドラ
前述のアテネ憲章は、とりわけ「住まい」を重視している。住宅は都市の最良の場所に位置し、人々が健康的な生活を送れるようでなければならない、とある。具体的には、幹線道路から外れた場所で、適度な人口密度があり、必要な日照が得られること、高層住宅の場合は住宅間に十分な距離があり、1階部分が開放されていることなどが提唱されている。
コスタはブラジリア建設の際に、都心部のほかに住宅街となるユニット「スーパークアドラ(スーパーブロック)」を設計し、1962年にスーパークアドラ(SQS308)の理想的なモデルを、南翼の中ほどに完成させた。その後は、このコスタ・モデルに倣い、様々な建築家たちがスーパークアドラを設計した。コスタのスーパークアドラ第一号の隣には、ニーマイヤーが1958年の段階で完成させていた、ファティマの教会がある。ブラジリアで最初に建てられた教会は、野外小劇場を思わせる。
主翼の居住地を空から眺めると、北翼にも南翼にも、正方形のブロックがいくつも並んでいることがわかる。コスタは居住地を、一辺約280メートルのスーパークアドラの連なりとして構成したのだった。個々のスーパークアドラには、緑の木立ちがあり、小道があり、住宅がゆったりとバランスよく配置されている。多くのブロックの住宅は7階建てで統一され、内部のデザインはブロックごとに異なり、画一的でない。1階部分はすべてピロティになっており、見通しが利き、自由に通り抜けることができる。ブロックとブロックの間には、ほどよい間隔で商店街が配され、小売店、スーパー、カフェを兼ねるパン屋、レストラン、バーなどが開業している。緑地や公園も近く、徒歩で生活が成り立つように設計されている。
義理の弟がスーパークアドラ内のアパートに住んでいるので、何度か泊めてもらい、ブロック内での生活を体験した。何よりも印象的だったのは、樹木が元気で、灼熱の太陽を遮ってくれる木陰がたくさんあることだった。彼のアパートの前には、遷都の後で植えられたマンゴーの大木があった。ブラジリアの気候と人の手によって、スーパークアドラはちょっとした植物園のようになっているのだった。日陰となり、風が通るピロティは住民の共同テラスの役割を果たし、人々がそこで立ち話をしていたりする。その前の路上では子供たちが遊んでいる。時おりプロパンガス売りや八百屋のトラックが、音楽を流しながらスーパークアドラ内にやってくるので、重いものはそこで買うことができる。
ブラジルの都会には、コンドミニオ・フェイシャード(ゲート・コミュニティ)と言って、ゲートが設けられ、周囲に塀がはりめぐらされた防犯性の高い住居区が多い。しかし、ブラジリアの主翼部では、ゲート・コミュニティは必要とされていない。スーパークアドラは、ゲートも塀もなく、そのまま街に繋がっていて開放的だ。この風通しの良さは、ブラジリアという「飛行機」の大きなチャームポイントだと思った。
大統領が立ち寄る食堂へ
大統領府の近くに、現職の大統領ルーラが、時おり訪れるレストランがあるというので、義弟に連れて行ってもらった。「チア・ゼリア(ゼリアおばさん)」という、庶民的な店だ。オーナーのマリア・デ・ジェズス・オリヴェイラ・ダ・コスタさんは、バイーア州出身の70歳、ゼリアという名前で親しまれている。1976年にゴイアス州を経てブラジリアにやってきて、食堂で料理人として働き、その後、様々な職業を経て、2002年に店を開いた。ゼリアさんはルーラ支持者なので、ルーラの所属する労働者党のお客が多いようだ。
レストランはガレージのような簡素な建物で、道路に面した入口は開け放たれている。店内には、ルーラ大統領とゼリアさんの写真が何点も掛けられている。屋外の木陰やテントの下にも席が用意されており、ほとんどの人が外で食事をしていた。席に着くと、注文しなくても、日替わりメニューがご飯とともに次々と運ばれ、友人の家に招かれたような気持ちになる。
この日、テーブルに並んだのは、リブ肉の煮込み、ビーフステーキに玉ねぎのソテーを添えたもの、チキンとオクラの煮込みの3種類。ゼリアさんの料理は、ブラジル北東部の田舎で食べた家庭料理のような味わいだった。そういえば、ルーラ大統領は北東部ペルナンブーコ州の農村の生まれだ。
青空の下、大樹の木陰でご飯を食べているうちに、本当に北東部の田舎にいるような気持ちになり、ブラジルの中枢である連邦議会や大統領府の間近にいることをすっかり忘れていた。思えば、ブラジリアを建設したのは、主に北東部からやってきた労働者たちだった。1960年の未来都市は、彼らの過酷な肉体労働なしには、実現することはなかった。
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Photos by Junko Iwamoto
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岩本 順子
ライター・翻訳者。ドイツ・ハンブルク在住。
神戸のタウン誌編集部を経て、1984年にドイツへ移住。ハンブルク大学修士課程中退。1990年代は日本のコミック雑誌編集部のドイツ支局を運営し、漫画の編集と翻訳に携わる。その後、ドイツのワイナリーで働き、ワインの国際資格WSETディプロマを取得。執筆、翻訳のかたわら、ワイン講座も開講。著書に『ドイツワイン・偉大なる造り手たちの肖像』(新宿書房)など。
HP: www.junkoiwamoto.com