文豪、天才詩人、科学者、劇作家として名高いヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749年8月28日~1832年3月22日)。プライベートでは恋多き男性、ワインが大好きだったという。人間味あふれる彼のゆかりの地を結ぶ、ゲ―テ街道の旅に出た。4回にわたり、西部から東部の8都市(フランクフルト、ヴェッツラー、フルダ、アイゼナハのヴァルトブルク城、エアフルト、ワイマール、ライプツィヒ、ドレスデン)で出会ったゲーテの足跡を探る体験記を紹介したい。今回は、ゲーテ生誕の地フランクフルトと若きウェルテルの悩みの舞台となったヴェッツラーの様子をお届けしよう。

ゲーテハウスにて

ゲーテの生家「ゲーテハウス」記念館

欧州の中心に位置するフランクフルトは、空路と陸路の要。現在は高層ビルの立ち並ぶ金融の街として有名だが、空路のなかった中世の頃は、国内外の高級ワインの貿易拠点として繁栄した。当時ワインは、市場や商店で取引される最も重要な品目のひとつだった。

ゲーテは1749年にこの街で生まれ、ザクセン=ワイマール=アイゼナハのカール・アウグスト皇太子の招きを受けてワイマールに出向く1775年までの幼少時代と青年期のほとんどを生家で過ごした。

早速彼の生まれた「ゲーテハウス(Goethehaus)」を訪ねた。

ゲーテハウス正面

ゲーテの父は、相続した隣り合う2軒の木組みの家を根本的に設計し直し、1755/56年にロココ様式の建物に改築した。その後、第二次世界大戦中に破壊されたが、1951年にもとの姿に忠実に再建され記念館となり、隣接する博物館と共に一般公開されている。

この家でゲーテは父ヨハン・カスパル・ゲーテ、母カタリーナ・エリザベート、妹のコルネリアと4人で暮らした。当時、このような大きな家に住んでいたのはごく限られた名家だけといい、ゲーテ家の裕福さが部屋の装飾や絵画、多数の蔵書から垣間みられる。それもそのはず、父は法律家で帝室顧問官として活躍していた。

内部は4階まであり、玄関の間、台所、青の小部屋を経て、実際に生活していた3階そして4階まで展示されている。

見逃せないのは4階の書斎「詩人の部屋」で若きゲーテは代表作品「若きウェルテルの悩み」や「ファウスト劇の素材も扱い始めており、生涯の終わりまでファウスト執筆をつづけた。

ちなみにゲーテの祖父は、フランクフルトで宿屋「ヴァイデンホーフ」とワインショップを経営し、一族の繁栄の基礎を築いた。郊外に小さなブドウ畑も所有しており、幼いゲーテは子供の頃からそこでブドウの木を育てる作業に親しんでいたそうだ。後にゲーテはワインをこよなく愛したと聞いていたが、その原点はここにあるようだ。

ゲーテは、ワインには活力を与える効果があり、健康に役立つという意見を持っていた。大人になってから1日に2リットル、時にはそれ以上のワインを飲んだとか。当時のワインが現在よりも低アルコールであったことを考慮しても、この量は想像を絶するもので、いかにゲーテがワイン好きだったかを物語る。

また、料理好きな母の影響を受け、ゲーテも美味しい食事と飲み物には目がなかった。フランクフルトの名物7種類のハーブにサワークリームやヨーグルトを混ぜたグリーンソース「グリューネソーゼ」は、彼の大好物だった。もともとは春に新鮮なハーブでつくるが、冷凍ハーブのある現在は一年中食することができる。

夕食に「フランクフルター・シュニッツェル(西洋とんかつ)」を味わった。グリーンソースと共に供されるフランクフルトだけで食べられる料理だ。ワイン貿易が盛んだった頃、庶民の飲料といわれたアップルワインと共に食したい。今もフランクフルト名物のこの飲料は、少し酸味があり、シュニッツェルによく合う。

フランクフルター・シュニッツェルはこの街特産のグリーンソース付。

フランクフルトの歴史に触れる新しい旧市街を散策

2019年夏にお披露目されて以来、フランクフルトの新たな観光スポットとして人気ある「新しい旧市街」にもゲーテゆかりのスポットがあると聞いた。

新しい旧市街?この一画は第二次世界大戦で破壊され、その後再建されたものの、地元民に不評だったことから旧市街を新しく作り直したのが名前の由来だそう。

新しい旧市街の街並み・泉の銅像はフランクフルト出身の詩人フリードリッヒ・シュトルツェ

大聖堂からレーマー広場までの間にあるこの一画には35棟の住宅(うち15棟は忠実に再建されたもの、20棟は新しい建物)があり、活気ある新・旧市街を形成している。曲がりくねった路地と絵のように美しい景色がたまらない。ゴシック様式の建物「エスリンガーハウス」や、フランクフルトの歴史を物語る数多くの時代と建築様式がほんの数メートルの間に連なっている。

新しい旧市街の通りにて

ここにかつてゲ―テの叔母ヨハナ・メルバーの家(通称エスリンガーハウス)があった。生家建て替えの1755年、ゲーテが6歳の時、妹のコルネリアとともにメルバー叔母さんの家に滞在した。叔母と楽しい時間を過ごした二人は、窓から旧市街の喧騒を眺めていたという。

メルバー叔母さんの旧居は現在、日本でも人気の童話「ぼうぼうあたま(もじゃもじゃペーター)」博物館とお土産店となっている。主人公ペーターと著者フランクフルト出身の精神科医ハインリッヒ・ホフマンを記念し、2019年9月に別の場所から移転して再オープンされた。
 
ちなみに旧市街の再建の際、スポリアと呼ばれるオリジナルパーツが使用された。フランクフルトの特徴である赤いマイン砂岩で作られた1階部分全体、あるいは個々の壁から突き出したコーベル石など、目を凝らして旧市街を歩けば、この街の生きた歴史の痕跡を数多く発見することができるはず。

フランクフルトの旧市街には、ゲーテだけでなく、ドイツ民族の神聖ローマ帝国の王や皇帝も、かつて戴冠式に向かう際に大聖堂とレーマーの間にある「戴冠式の道」を歩いた。

この戴冠式の道の始まりに位置していた角地にあるカフェハウス「Goldene Waage(黄金の秤)」で有名なケーキ「フランクフルター・クランツ」を味わった。このケーキ「フランクフルトの冠」は、まさに戴冠式を象徴した銘菓。リング状で王冠を、表面を覆うクロカントは金色を、上にのっているチェリーはルビーをイメージしたもの。バタークリームたっぷりのこのケーキを是非試してほしい。

失恋と友人の死を綴った「若きウェルテルの悩み」の舞台となった街、ヴェッツラーへ

フランクフルトから電車で1時間、木組みの家街道沿いの街としても人気のヴェッツラーへ。この街で過ごしたことは後のゲーテの作品に大きな影響を与えた。ゲーテが住んだ家のあるコルンマルクト広場の木組み建築は、見事な景観だ。

コルンマルクト広場木組みの家並み

今から約250年前の1772年5月、22歳のゲーテは馬車でヴェッツラーにやってきた。ゲーテはラーン河畔のこの街に4カ月間滞在したが、その月日はゲーテの人生を変える転機となった。ここでシャルロッテ・ブッフ(通称ロッテ)と出会い叶わぬ恋に失望落胆、そして親友イェルザレムの死と劇的な出来事に遭遇した。

ゲーテに扮したガイドの案内で文豪ゆかりのスポットを巡る

ちなみに当時ヴェッツラーは、1690年から神聖ローマ帝国ドイツ民族の最高裁判所であるライヒスカンマーゲリヒトの所在地として、また1756年から1806年の解散までその登録機関として機能していた。

ライヒスカンマーゲリヒト博物館

さらにこの街は、ゲーテの大叔母スザンネ・マリア・コルネリア・ランゲ(母方)の故郷でもあった。こうしてゲーテは父の要請で最高裁判所の研修生として過ごすことになった。

だが若き日のゲーテは「法律学」を軽視し、文学や芸術を嗜み、ヴェッツラーやラーン渓谷の周辺を歩き回った。そんな中、彼はロッテに出会い、恋した。

母亡き後、長女のロッテは11人の弟妹と父を支え家計を切り盛りしていた。彼女は文学を好むゲーテを応援し親交を深めていったが、すでに婚約していた。皮肉なことにその婚約者はゲーテの研修先の先輩だった。

ロッテの家にて・(左から)彼女の服、ドイツ語オリジナル書簡「Die Leiden des jungen Werthers」

結婚により経済の安定を得て家計を助けることがいかに重要か理解していたロッテは、ゲーテに惹かれていくものの、運命に逆らうことができなかった。

こうしてゲーテは辛い三角関係を断ち切るため同年9月、ヴェッツラーを離れた。ロッテはその1年後、フィアンセと結婚した。

実家に戻ったゲーテのもとに、親友カール・ヴィルヘルム・イェルザレム自殺の知らせが入った。イェルザレムは、1765年からライプツィヒ大学で法律を学び、この時期にライプツィヒでゲーテと知り合った。その後イェルザレムは1771年、ブラウンシュワイクの公使館秘書としてヴェッツラーに赴き、ライヒスカーマーゲリヒト法廷で訴訟を学ぶ中、ゲーテと再会した。

イェルザレムは、上司との不和や自身が中流階級出身であることを理由に貴族社会から拒絶されたことで落ち込んでいた。さらに、選帝侯の秘書ヘルドの妻に恋したイェルザレムは1772年10月末、自殺した。

彼の部屋にピストルのリプリカがあるのには驚いた

ゲーテはそれから2年後、ウェルテル(Werther)のモデルとなるイェルザレムの自殺と自身の失恋を描いた書簡小説『若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers)』を上梓した。主人公が自殺するこの小説は、ウェルテルを真似て自殺する人が増え、世界的に注目されて有名になった。

ロッテハウスは1922年、この書簡によって世界的に有名になったロッテとゲーテとの出会いを記念して開設され、博物館として公開されている。

カメラファン憧れのライツパークへ

ヴェッツラーは、ライカカメラの本拠地としても注目を集めている。街のはずれにある「ライツパーク(Leitz Park)」を訪ねた。

ライカワールドや博物館のツアーも提供している

パークという名前の通り、2万平方メートルの敷地には本社(ライカワールド)、工場、博物館、ショップなどがあり広大だ。カメラを模倣した敷地内建物のデザインは、約10年前に建てられた。
パーク内の中央広場の中ほどにある曲線のパビリオン「カフェ・ライツ」は2018年、グルメ雑誌でドイツのベストカフェに選定されたという折り紙付き。ケーキもプラリネも美味しい。

ライカワールドに入って受付左側にあるのはライカギャラリー。国内外の著名なライカフォトグラファーや新進気鋭のアーティストの優れた歴史的な作品が展示されていて、しばらく見入ってしまった。

ライカワールド本社社屋の受付にて。左側にライカギャラリーがある

さらに奥へ行くと、ライカカメラの初代から現在に至るまでの名機やカメラやレンズの展示コーナーがあった。工場では、カメラの製造工程を見学した。

歴代のカメラやレンズ、部品がずらりと並んでいる展示コーナー

個人的に一番興味深かったのはエルンストライツ博物館だ。写真の基礎知識やライカの技術と歴史をはじめ、ライカの発明者オスカー・バルナックの生涯の紹介や、モチーフを具体的に写真に収めるにはどの様な要素を使えばイメージに影響を与えることができるかなど、興味深い情報が提供されていた。

カメラを模倣した外観

その後、ライカアーカイブへ。今回は特別に案内してもらい、歴史的な図面やマニュアル、ライカのカメラやレンズのコレクション、1960年代までの出荷台帳など、さまざまな資料について説明してもらった。事前予約をすれば月に1度行われているツアーで見学できる。

ライカワールド巡りの最後にショップへ立ち寄った。実物を手にすると、カメラを買いたくなった。だが思いとどまって「旅も始まったばかり。持参した大型カメラもあるし、荷物になる」と、自分に言い聞かせた。今回は、カメラのアドバイスをしてもらうことで満足し、次の街フルダへ向かった。 

夕飯は旬の白アスパラガスと鮭を味わった


取材協力:
ドイツ観光局 
フランクフルト観光局 
ヴェッツラー観光局 
ライカカメラ
 

All Photos by Noriko Spitznagel
一部画像は特別許可を得て撮影

シュピッツナーゲル典子
ドイツ在住
国際ジャーナリスト連盟会員 www.ifj.org