5年ほど前、一時帰国した時に長崎まで足を運び、19世紀はじめの景観の復元が進む「出島」を歩いた。
江戸時代に造られた日本初の人工島、扇形をした出島は、長い間想像が及ばない島だった。人工島といえば、実家がある神戸のポートアイランドをまず思い浮かべるが、出島が造られたのは400年近く前のこと。島国である日本にとって、当時の出島は国境だった。この島を歩けば何が見えてくるだろうか、そう思っての訪問だった。
オランダと日本を繋いだ人工島
長崎の港は、1571年に国際貿易港として開港し、ポルトガル船が寄港していた。日本とオランダとの繋がりが始まったのは、1600年にオランダ船リーフデ号が豊後国(大分県)に漂着してからである。リーフデ号は日本にたどり着いた初めてのオランダ船だった。その頃、設立されたオランダ東インド会社は、北部の平戸に商館を設置していた。
出島の築造は1634年に始まった。もとは、戦国時代以降に伝来したキリスト教の布教を阻止しようと、市内に雑居していた、キリスト教の布教に熱心だったポルトガル人らを収容するために造られたのだった。
出島が完成してまもなく、島原・天草の乱がおこり、キリシタンに対し厳しい弾圧が始まった。1639年には、鎖国政策で、ポルトガル船の来航が禁じられ、出島のポルトガル人は追放された。空き地となった島に移転してきたのは、オランダ商館だった。当時、ポルトガルとオランダは戦争状態にあり、オランダは日本との貿易を独占しようとしたと言われている。出島にはその後200年以上にわたってオランダ商館が置かれ、海外に開かれた唯一の窓口として機能していた。
1844年にオランダ国王が日本に開国を勧告、1853年にはロシア使節プチャーチンが来航して開国交渉を行った。同年には、米国もペリー艦隊を日本に派遣、1854年に日米和親条約、1858年には日米修好通商条約が締結された。1859年には、出島のオランダ商館は廃止され、代わって領事館が開設された。長崎で外国人居留地の造成が始まると、出島はその一部として内陸化された。1922年には「出島和蘭商館跡」として国の史跡となった。
出島を歩く
歩いてみると、出島はとても小さかった。島の周囲は563メートル、東西の幅は70メートル、総面積は1万5000平米ほどだ。
オランダとの交易が行われた水門は、当時は直接海に面しており、2つの通り口は、南が輸入用に、北が輸出用に使われていたそうだ。オランダ船の船長やオランダ商館員の居宅だった一番船船頭部屋は1階が倉庫、2階が住居として使われていた。輸入された砂糖が貯蔵されていた蔵、蘇木と呼ばれる染めものの原料用の土蔵、商館長(カピタン)の事務所兼住居だったカピタン部屋、商館長次席の住まいだったヘトル部屋、商館員たちの食事が作られていた料理部屋などを回った。
興味深かったのが、出島の出土品の展示だった。どの品からも、出島でのオランダ人の生活を想像することができる。牛や豚の骨、食器類、ジンやワインのボトル、ワイングラス、コンブラ瓶と呼ばれた醤油の瓶、そしてパイプ・・・。商人たちはオランダから持ち込んだワインを飲み、使用人たちは東南アジアや長崎近郊で手に入れ、出島で飼育していた家畜を潰して料理していた。彼らはソーセージや塩漬け肉、バターなどの乳製品も作っていたと言われる。料理には、日本の醤油なども使っていたかもしれない。島には菜園もあり、野菜やハーブが育てられていた。
オランダ商人は6月ごろにバタヴィア(ジャカルタ)から出島に到着し、数ヶ月、あるいは数年の任期を終えると、10月、11月ごろの船で帰国していた。出島には常時15人くらいの商館員がいたという。彼らは、1799年の解散まで、全員がオランダ東インド会社の社員だった。
島に滞在したオランダ商人たちは、かなり息苦しい生活をしていたのではないだろうか。妻子を同行することは許されず、娯楽といえばビリヤードやゴルフ、バドミントンくらい。ロックダウンを経験したので、その息苦しさはなんとなくわかる。だが、日本との交易は、特に17世紀において、莫大な利益をもたらした。オランダは日本に、まず中国産の生糸を、その後は砂糖を主に売り、日本の銀や銅を手に入れ、アジアの貴重な香辛料を購入していた。
出島にやってきたのはオランダ人商人だけでなかった。1690年に来日したオランダ商館付の医師、エンゲルベルト・ケンペルの出身地はドイツである。1823年、11代将軍家斉の時代にやってきたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)も、医師の肩書きで来日したドイツ人だ。ケンペルの時代はオランダの黄金時代だったが、シーボルトの時代のオランダは、すでにフランスに併合されていた。
シーボルトと言えば、日本では、1828年の「シーボルト事件」が知られている。当時完成したばかりの日本地図の写しを、オランダに持ち出そうと策略していたことが幕府に知られ、国外追放になった事件だ。この地図は「大日本沿海輿地全図」あるいは製作者である伊能忠敬の苗字をとって「伊能地図」と呼ばれる。日本の海岸線が正確に写し取られた地図で、国外への持ち出しは固く禁じられていた。地図の写しを手配した幕府天文方・書物奉行、高橋景保らは投獄され、高橋は獄死、シーボルトは再渡航を禁じられた。
興味が湧いたのは、シーボルトの日本滞在中の行動だ。彼は出島にはほとんどおらず、フィールドワークに専念するほか、長崎に「鳴滝塾」を開き、西洋医学を教えていたという。そんな彼の仕事を知りたくて、オランダ、ライデンの博物館を訪れた。
大学街ライデンへ
ライデンに足を運んだのは、2022年の春だった。この街はオランダ最古の大学があることで知られる。大学の建物は、街の風景に溶け込み、散歩をしていると、知らない間にキャンパス内に迷い込んでいたりする。
ライデン行きがずいぶん遅れてしまったのは、最終的には良かった。訪れる直前に、ライデン国立民族学博物館が所蔵する、川原慶賀作の「出島屏風」の修復が終わり、一般公開されたばかりだったからだ。
まず、シーボルトの居宅だったシーボルトハウスに足を運んだ。受付の女性が流暢な日本語を話し、博物館の概要を教えてくれた。ここにはシーボルトが日本で収集した膨大なコレクションの一部が展示されている。彼の多岐にわたるコレクションには驚くばかりだった。まるで、日本に存在するものすべてを収集しようとしたのではないか、と思えるほどだった。
自然のものでは、木の葉や草花の押し花、貝殻や岩石、剥製の動物などが目立つ。シーボルトは自分の愛犬まで剥製にして、オランダに連れてきている。工芸品ももれなく収集されており、磁器や陶器、漆器、籠細工、楽器や刀剣類、家具、衣服、装飾品のほか、化粧品や台所道具まで揃っている。工芸品が展示された部屋は、まるで江戸時代後期のセレクトショップのようだ。オランダ商館医として派遣されたものの、シーボルトには、貿易に適する日本の産物を発掘調査するという任務も与えられていたという。
数多くの地図や当時の観光ガイドブックも展示されていた。「伊能地図」は持ち帰れなかったが、それ以外の地図は可能な限り収集し、持ち帰っていたのだった。
シーボルトは、日本での生活を「人生で最も幸福な日々」だと語っている。役人、遊女、通詞くらいしか出入りが許されていなかった出島で、彼はこっそりと医者や学者たちのネットワーク作りを行い、情報収集に励んだ。また、薬草を採取したり、日本人患者を治療するために、定期的に出島を出る許可を得ていた。1824年には長崎に偽名で土地を購入し、医塾「鳴滝塾」を設立。それは日本初の西洋医学の私塾だった。
1825年、シーボルトは楠本たき(お滝)と出会い、恋におちる。彼女が出島に出入りを許された遊女だったかどうかは不明だ。当時、商館員と日本人女性との結婚は許されなかったが、2人は出島のシーボルトの居宅で暮らし始め、1827年に長女いねが生まれた。しかし、出島では子育てができなかったため、母と娘は長崎に移り、シーボルトは毎日2人を訪ねて暮らしを支えた。いねが1歳の時「シーボルト事件」が起こった。
オランダに戻り、ライデンに居を構えたシーボルトは、著作集「日本」を発表するほか、収集品を自宅などに展示し、一般公開し、民族学博物館設立を立案するなど意欲的に活動していた。やがて、彼はドイツで結婚し、5人の子供に恵まれ、自ら興した会社で、主に植物の輸入と栽培の普及に従事した。
日蘭修好通商条約の締結後、追放令が解かれると、シーボルトは30年ぶりに再来日し、お滝といねに再会した。お滝も結婚しており、いねの他に2人の子供をもうけていた。いねはかつてシーボルトの弟子だった医師などから医学を学び、父からも医療の最新情報を得て、日本初の西洋医学による産婦人科女医となった。シーボルトは2度目の来日の際に、幕府の外交顧問に抜擢されたが、その後職を解かれ、1862年に再び国外追放された。このような家族のドラマはすべて、ライデンに来てから知った。
続いて、ライデン国立民族学博物館を訪ねた。1837年に設立された同博物館は、当初、国立シーボルト日本博物館と呼ばれ、コレクションの多くは、シーボルトが収集したものだった。
川原慶賀(1786-1860)が1836年ごろに描いた、現存する唯一の屏風作品「出島屏風」は、同博物館の傑作収蔵品の一つである。オランダ人と日本人のチームにより2年の歳月をかけて修復された屏風は、幅およそ4.7メートル、高さ1.7メートルの八曲一隻屏風。描かれているのは、当時の出島と長崎湾を一望する鳥瞰図だ。屏風は展示室の中央で、ひときわ輝きを放っていた。
出島のオランダ商館への出入りを許されていた慶賀は、主に長崎の風景や出島の商館員たちの暮らしを描いた。シーボルトのお抱え絵師としても働き、日本の動植物を多く描き、そのほとんどが資料としてオランダに送られた。写真のようなリアルな描写は高く評価された。
博物館では、出島屏風の公開にあわせ、専用ウェブアプリ「出島エクスペリエンス」を開発、展示されている屏風絵のディティールにスマートフォンをかざすと、様々なストーリーが語られる拡張現実(AR)を楽しめる。博物館を訪れることができない場合は、それぞれの環境に屏風を配置し、鑑賞することが可能だ。
ホルタス・ボタニクス(ライデン大学付属植物園)内には「シーボルト記念庭園」がある。シーボルトはこの植物園に球根や種子、苗など、西洋では知られていなかった植物、およそ730種類を日本から送っていた。あじさいには、愛するお滝の名前をとって「オタクサ」と名付けた。現在、庭園ではシーボルトが紹介した樹木のうち、シロバナフジ、トチノキ、イロハモミジ、ケヤキ、アケビなど16種が育っている。
ライデン以外では、長崎にシーボルト記念館が、ドイツのヴュルツブルクにシーボルト博物館がある。彼のコレクションはミュンヘンの五大陸博物館にも所蔵されている。シーボルトを訪ねる旅はまだ続きそうだ。
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Photos by Junko Iwamoto
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岩本 順子
ライター・翻訳者。ドイツ・ハンブルク在住。
神戸のタウン誌編集部を経て、1984年にドイツへ移住。ハンブルク大学修士課程中退。1990年代は日本のコミック雑誌編集部のドイツ支局を運営し、漫画の編集と翻訳に携わる。その後、ドイツのワイナリーで働き、ワインの国際資格WSETディプロマを取得。執筆、翻訳のかたわら、ワイン講座も開講。著書に『ドイツワイン・偉大なる造り手たちの肖像』(新宿書房)など。
HP: www.junkoiwamoto.com