VB 91-26-1、VB Cal 6-04、VB 32-07、VB 95-02・・・。農薬がほとんど必要ない、新しいワイン用ブドウ品種は、最初、このような番号で呼ばれていた。やがて、それぞれに名前が付けられた。
今では、VB 91-26-1はカベルネ・ブラン、VB Cal 6-04はソーヴィニヤック、VB 32-07はソーヴィニヨン・ソワイエール、VB 95-02はカベルネ・ジュラ、と呼ばれている。
VBはスイスの育種家、ヴァレンティン・ブラットナーさんのイニシャルで、ここに挙げた品種はいずれも彼が交配したものだ。新交配品種の多くは研究所で誕生するが、彼のように個人で交配を実践している育種家も、わずかながら存在する。
注目を集めたカベルネ・ブランの登場
これらの新交配品種は、ドイツ語で「ピーヴィー(PiWi)種」と呼ばれる。「カビ菌耐性品種」という意味の略語だ。19世紀以降に米国から運ばれてきた、ウドンコ病、ベト病の原因となるカビ菌などに耐性があるのが特徴だ。
カベルネ・ソーヴィニヨンやソーヴィニヨン・ブラン、ピノ・ノワールやシャルドネなどに代表されるヨーロッパ品種のブドウ、つまりヴィーティス・ヴィニフェラは、これらの病気に耐性がないが、米国系品種であるヴィーティス・ラブルスカやアジア系品種であるヴィーティス・アムレンシスなどは耐性を持つ。しかし、これらの耐性品種からはヨーロッパ品種のような高品質で美味しいワインができない。そこでヨーロッパ品種と耐性品種を交配することで、ヨーロッパ品種の良質の風味を持ち、しかも病害に強いピーヴィー種を生み出すという研究が行われている。
ドイツでは1980年代から研究が進み、ガイルヴァイラーホーフ・ブドウ品種改良研究所で誕生した赤品種、レゲントが一定の成果をあげている。完全無農薬栽培は困難だが、8割程度の農薬散布量を減らすことが可能だ。他にもフライブルク・ワイン研究所が交配したヨハニーター、ブロナー、ソラリス、カベルネ・コルティスなどが普及し始めている。いずれの品種も、農薬散布量を減らそうと試みるオーガニックワイナリーの間で重宝されている。
ドイツでは近年、ヴァレンティンさんが1991年に交配したカベルネ・ブランが脚光を浴びている。これはカベルネ・ソーヴィニヨンと耐性品種の交配過程で生まれたものだ。この白品種には、カベルネ・ソーヴィニヨンの親であるソーヴィニヨン・ブランの風味がかすかに感じられる。ドイツでも、ソーヴィニヨン・ブランの人気が高いので、このピーヴィー種が注目されるようになったようだ 。最近では、高品質のカベルネ・ブランが幾つも誕生し、カベルネ・ブラン単独の試飲会に招かれることもある。
そして今、ヴァレンティンさんが交配したソーヴィニヤック、フライブルク・ワイン研究所のソヴィニエ・グリなども注目されるようになっている。ドイツではこれら次世代のピーヴィー種が、美味しいワインとして、徐々に認識され始めている。
ソワイエールの小さな「研究所」
昨年の6月はじめ、 ヴァレンティンさんとお目にかかることができた。ブドウの開花を控えた最もお忙しい時期だったが、奇跡的にアポイントが取れたのだった。
ヴァレンティンさん、シルヴィアさん夫妻の自宅兼ワイナリー、そして研究畑は、スイス、ジュラ州のソワイエールにある。ドイツから列車でバーゼル、ベルン州のビエンヌを経由してジュラ州に入り、州都のドゥレモンに宿をとった。背後のジュラ山脈はスイス西部の複数の州にまたがって続き、スイスとフランスとの自然国境となっている。ドゥレモンからフランス国境までは直線距離で10キロほどだ。
ソワイエール行きのバスに乗り、そこからは歩いて行くはずだったが、ドイツから車で戻る途中のヴァレンティンさんと連絡がつき、ドゥレモンから乗せてもらった。運転席の周囲には、口を縛った小さな白い紙袋が山のように積まれている。中には、この日の早朝、ドイツで開花したばかりのブドウの花が入っている。ヴァレンティンさんはミツバチのごとく、ドイツからスイスへと花粉を運んでいる途中なのだ。午後からは自らの畑とヌーシャテルの研究畑で、受粉作業を行うという。温暖なドイツのファルツ地方では開花が始まっているが、スイスの標高の高い畑では開花まであと数日ある。そのタイミングを狙っての人工受粉なのだ。
ソワイエール村の中心を外れ、緩やかな谷間の一本道を進むと、背後を森に守られた高台に一軒家が見えてきた。周囲にはヴァレンティンさんのブドウ畑と牧草地があるだけだ。南向きの部屋は温室のような造りでとりどりの野菜が育ち、軒下では種子から育てている新交配品種のブドウが、ケースの中で芽を出している。
バーゼル生まれのヴァレンティンさんは60代なかば、ドイツ系のスイス人だ。生物学の教師だった父親がオーガニック農業に関心を持っていたため、彼も自然に興味をそそられるようになった。基礎教育を終えると、ヌーシャテルでフランス語を習得しながら、ワインの醸造所で働き、その後は熱帯農学を収めた。ワイン造りへの興味を抱きながらも、彼はまず、スイスの製薬会社に就職し、南アフリカで働くことを選択した。1980年代初頭のことだ。
「当時の農業は、すでに毒を撒き散らしていた」そうヴァテンティンさんは回想する。ヌーシャテルで働いていた時も、熱帯農学を学んでいた時にも、化学農薬の過剰に気づいていたが、製薬会社で働くことで、現在の農業の問題点がはっきりと見えてきた。「化学農薬を使わなくても農業は可能であるのに、国も企業もメディアも、それは不可能だと言う」ヴァレンティンさんは選んだ仕事に疑問を持ち始めた。
「無理のない収量を維持すれば、土壌の疲弊も避けられ、持続的農業が可能になる。しかし、生産者側は常に最大限の収量を追求するから、悪循環が起こる」農業の本質を理解せず、化学を信奉する者が農業を支配している現実、金儲けだけが目標となっている現実、起こる環境汚染には目をつぶるという現実に直面し、ヴァレンティンさんは、いたたまれなくなって抗議の声をあげたが、会社側は聞く耳をもたず、彼を解雇した。
スイスに戻ったヴァレンティンさんは、オーガニックのワイン造りに取り組むことを決意し、1985年にソワイエールに土地を購入した。そしてヨーロッパ品種と耐性品種の交配、無農薬栽培に取り組み始めた。最初に交配を行い、栽培を開始したのが、ソーヴィニヨン・ソワイエール、カベルネ・ジュラなどだった。
「ピノ・ノワールも、シャルドネも、スイスでポピュラーなシャスラも、伝統品種は残念ながら農薬に依存している。しかし、ピーヴィー種を栽培すれば、無農薬は夢ではなくなり、従来とは全く異なる農業が可能になる。ワイン産業は近い将来、ピーヴィー種への転換をしなければ、永遠に農薬を撒き続けることになり、土壌や地下水は汚染され、最終的にブドウも他の作物も栽培できなくなる。そうなる前に、畑を持続可能にしなければならない」そうヴァレンティンさんは警告する。彼は、自然に囲まれた小さな畑でピーヴィー種を生み出すことで、農薬至上主義者たちと戦っているところだ。
研究畑には、化学農薬は一切投入されていない。天候の関係で必要性がある時にだけ、オーガニック剤を撒く。しかし彼は、それさえも減らさなければならないと言う。「理想は、いかなる薬剤も必要のないブドウだ。ヨーロッパ品種と耐性品種のありとあらゆる遺伝的要素の組み合わせを考慮し、病害により耐性があり、より美味しいブドウを 目指して、ずっと交配を続けていかなければならない」ピーヴィー種を生み出す仕事は、ヴァレンティンさんのライフワークとなった。
ヴァレンティンさんは、例えば、20世紀前半に活躍したフランスの育種家、ウジェーヌ・クールマン(1858-1932)が生み出した耐性品種にも注目している。曽祖父の家の庭に、クールマンのブドウが植えられていたのだ。「クールマンが交配した赤品種、マレシャル・フォッホは、本当にいいブドウだ。農薬が必要なく、しかもフルーティでいいワインができる。タンニンはあまりないが、必要ならばアッサンブラージュで調整できる」。彼の畑では、当初からマレシャル・フォッホも植えられ、耐性品種として交配に活用されている。クールマンの仕事は、没後50年以上を経て、ヴァレンティンさんに引き継がれているのだ。
ピーヴィー品種のデータバンクを構成する畑は、ソワイエールのほか、近隣のクルーと南西5キロのところに位置するクーフェヴレにも分散している。2021年は天候が悪く、幾度も雹に見舞われたが、畑が分散されているため、貴重な数々のブドウは守られた。このほか、ヴァレンティンさんは、近郊にあるヌーシャテルの研究機関、ドイツの苗木業者、スペイン、カタルーニャ地方のワイナリーなどと長年にわたって共同作業を行なっている。以前はカナダや米国などでも仕事をしていたという。将来のワイン造りに危機感を抱く人たちが、ヴァレンティンさんの知識を求めているのだ。
彼自身が常時キープしているピーヴィー品種はおよそ1万種。全てを維持することはできないので、選別を行い、将来的に有利になるもの、より耐性があるもの、より美味しいワインとなるものを一定数維持している。
生み出されるピーヴィー品種の耐性の内容は多様だ。耐性品種間でも交配を行うので、選別を経て新しく誕生するピーヴィー品種の遺伝子は複雑で多彩になってくる。複雑に組み合わさった耐性遺伝子を持つブドウは、病原菌への耐性がより高い。遺伝子解析を行うと、未知の遺伝子が見つかることもある。研究者にとって非常にエキサイティングな瞬間だ。
交配による品種改良は遺伝子を操作しないから、大変な手間がかかる。無数の組み合わせがあり、成長は自然任せ。そこから理想的な品種を選び出すのは、根気のいる仕事だ。 遺伝子組み換え技術とは一線を画したヴァレンティンさんの仕事には、彼の40年にわたる経験が生かされている。
育種家の仕事
ソワイエールの畑を見せていただいた後で、5キロほど離れたクルーの畑に向かった。ソワイエール同様の高台で、標高は400メートルほど。ブドウはまだチラホラと部分的に開花しているだけだ。ヴァレンティンさんに、「君も一緒にやらないか」と誘われ、スタッフのドリスさんと3人で受粉作業をすることになった。
ビーチパラソルと折りたたみ椅子、ピンセット、そして花粉の入った紙袋を手分けして畑に運び込み、特定の耐性種の列の開花前のつぼみを探す。ほんの少しでも開花していたら、ブドウは次々に自家受粉してしまうからだ。幸いその列には、まだ多くの青いつぼみが見つかった。
フェンスの前に日除けのパラソルを立て、椅子に座って、特殊な形のピンセットで花冠を一つ一つつまむようにして取り除いていく。ブドウ1房分の雄しべを除去するので、100個前後の花冠を根気よく取り除くことになる。次にドイツから運んできた花をほぐして、袋の中を花粉で満たし、つぼみにかぶせて固定する。最後に、うまく受粉が進むようにパタパタと袋を叩く。この作業をひたすら繰り返すのだ。
あたりはしんと静まって、草むらの中の虫の鳴き声や、あたりを飛ぶ虫の羽音が聞こえるだけだ。時折、遠くの牧草地からスイス特有のカウベルの音が響いてくる。青い空の下で私たちは黙々と作業を行った。繁殖のための器官である美しい蕾を前に、神秘的な瞬間に関わっていることを感じた。
交配の際には、耐性だけでなく、色や風味についても考慮する。例えば、白品種が求められるのであれば、両方の親を白品種にして、白品種の誕生する確率を上げる。ソーヴィニヨン・ブランのようなアロマが欲しければ、カベルネ・ソーヴィニヨンを親にするとうまくいくケースが多いという。カベルネ・ソ−ヴィニヨンは、その親であるソーヴィニヨン・ブランの遺伝子を持つからだ。ヴァレンティンさんが蓄積した知恵が、交配の成功率を高める。
交配からできたブドウは、一粒一粒の種を取り、実生栽培を行う。ポットで芽を出した苗は、試験畑に植え、農薬なしで乗り切ることのできた株を残す。最終的には、病害に見舞われる劣悪な自然環境の中でも健康に育つ、わずかな株を選び抜く。ほんの少しでも病気の兆候があれば、そのブドウは排除する。そして、最終的に残ったものだけを遺伝子解析し、十分な耐性メカニズムを持つ事が確認された、最も強固なものだけを残す。病害菌も進化していくので、さらなる交配を継続し、より強固な耐性を持つように対処しなければならない。1万回の交配を行っても、最終的に得られる耐性品種は1つか2つという場合もある。
ヴァレンティンさんの交配品種は、カベルネ・ソーヴィニヨン系が多い。カベルネ・ソーヴィニヨンを親にすると、高確率で高品質な交配種が生まれるからだ。例えば、ピノ・ノワールからは、なかなか質のいい交配品種が生まれないらしい。リースリング、シャルドネなど、様々な品種で交配を試みたが、常に良い成果が得られるのが、カベルネ・ソーヴィニヨンなのだという。
カベルネ・ソ−ヴィニヨンには、すでに耐性種がある。あるヨーロッパ品種を耐性化させる場合、すでに選別された木があれば仕事は早く、18か月くらいで耐性種が生み出せるという。ドイツの最重要品種、リースリングにも可能性があるそうで、すでにファルツ地方の研究所で交配が進められ、耐性のあるリースリングが誕生しつつある。目下、選別、調査の段階で、将来、リースリングの栽培者には朗報が訪れることになるだろう。ただ、問題が一つある。ピーヴィー種として認可され、市場に登場するまでの手続きに、膨大な時間がかかるのだ。カベルネ・ブランも交配から実用化までに20年くらいかかった。
美味しさも進化するピーヴィー・ワイン
この日は、ヴァレンティンさんが生み出したピーヴィー種から造られたワインをいくつか試飲した。ドイツのオーガニックワイナリー、ルンメルが生産しているカベルネ・ブランとカリフォルニアだ。
ルンメルワイナリーでは2000年からカベルネ・ブランを栽培し始めた。爽やかな草原のような香りで、エルダーフラワーがほのかに香る。爽やかできりりとした味わいだ。 ヴァレンティンさんは、30年以上品種改良を継続しているので、新しい苗の方が耐性が強くなっているという。
カリフォルニアと名付けられたワインはソーヴィニヤック100%。このピーヴィー種はソーヴィニヨン・ブランとリースリング、そして耐性品種の掛け合わせで、ルンメルワイナリーでは2005年に苗を植えた。リースリングの遺伝子も併せ持つので、ソーヴィニヤックにはトロピカルフルーツ系の香りが立ちのぼる。カリフォルニアと名付けられたのは、ヴァレンティンさんが手がけているヌーシャテルの研究畑の区画の名称だ。
ヴァレンティンさんの奥様のシルヴィアさんが造られているワインは、ドイツに持ち帰ってからゆっくりと味わった。1つはソーヴィニヤックと ソーヴィニヨン・ソワイエールのアッサンブラージュ「キュヴェ・ドゥ・コリアール」、もう一つは ソーヴィニヨン・ソワイエール単独醸造の「Les Mergats(レ・メルガ)」だ。
夫妻は、VB 32-07に付けたソーヴィニヨン・ソワイエールという名前を維持したかったのだが、ソワイエールという地名が名称についていることで、この品種を他地方で生産すると混乱が起きると勧告され、新ヴィンテージからは、やむなくラヴェル・ブランという名称に変更した。
前者は、2つの畑のアッサンブラージュでもある。軽やかな白で、草原の中に放り出されたような爽快感に包まれる。サラダや野菜のグリルにぴったりだ。後者は、畑はクーフェーヴ、品種はソーヴィニヨン・ソワイエール単独なので、品種の個性がわかる。前者よりもタンニンが感じられ、重量感もあり、肉料理にも合わせられそうだ。
ジュラの風土から生まれるピーヴィー種には、育種家ヴァレンティンさんの熱い思いと細やかな手仕事が込められている。「僕は、僕のできることをしてきたから、これを次世代の人たちが継いでくれることを願っているよ。僕がクールマンの苗を受け継いで仕事をしてきたようにね」ヴァレンティンさんは、 汚染されていない健康なブドウ畑が少しずつでも増えていくことを切に願っておられた。
—
岩本 順子
ライター・翻訳者。ドイツ・ハンブルク在住。
神戸のタウン誌編集部を経て、1984年にドイツへ移住。ハンブルク大学修士課程中退。1990年代は日本のコミック雑誌編集部のドイツ支局を運営し、漫画の編集と翻訳に携わる。その後、ドイツのワイナリーで働き、ワインの国際資格WSETディプロマを取得。執筆、翻訳のかたわら、ワイン講座も開講。著書に『ドイツワイン・偉大なる造り手たちの肖像』(新宿書房)など。
HP: www.junkoiwamoto.com