スペイン北部、リオハ地方の赤は、常に高い人気を誇るワインだ。骨格がしっかりとしていて、凝縮感があり、長期熟成が可能。高貴かつスタイリッシュでありながら、親しみやすい味わいを持つ。

リオハの赤を構成する重要な品種がテンプラニーリョだ。スペインのカベルネ・ソーヴィニヨン、と言われることもあり、リオハの赤はボルドーの赤のようなキャラクターを持つ。醸造の際には、グラシアーノ、マスエロ(カリニェナ)、ガルナッチャなどがブレンドされることもあるが、テンプラニーリョは単独でも十分にその魅力を発揮する。

テンプラニーリョのルーツは、はっきりとはわかっていない。品種名が文献に登場するのは17世紀に入ってからだ。一方でリオハワインに言及した文書は、9世紀のものが残っているという。

リオハ地方では、北に横たわるカンタブリア山脈から流れ出るエブロ川の流域で、ブドウが栽培されている。2000メートル級の山々が連なるこの山脈は「海のスイス」と呼ばれ、リオハ地方を悪天候から守り、ワイン造りに理想的な自然環境を整えている。 高品質のブドウは、石灰質土壌が支配的なエブロ川北側のリオハ・アラベサ地域で収穫されている。

スペインワインの歴史はおよそ3000年と言われ、紀元前1000年ごろにフェニキア人が、南部のアンダルシア地方にブドウをもたらしたのが始まりだという。リオハ地方では、2000年以上前からワインが造られており、ローマ時代の圧搾場などの遺跡が発掘されている。中世に入ると、修道院を拠点とするワイン文化が開花した。15世紀には、ワインを重点とする農業が営まれるようになり、地元だけでなく、他の地域の需要にも対応していた。

リオハワインとボルドーワインが似ているのは、実際にこの2地域間に交流があったからだ。両地域間はおよそ330キロメートル、東京・名古屋間くらいの距離しか離れていない。

マルケス・デ・リスカル_シティ・オブ・ワイン

リオハワインの基礎にボルドーの技術

交流は19世紀半ばに始まった。フランスに滞在していたスペインの造り手が、フランス品種や、フランスの醸造技術を故郷にもたらしたのである。

よく知られているのが、1858年にマルケス・デ・リスカル醸造所を創業した、ギレルモ・ウルタード・デ・アメサガ侯爵とその息子カミロの功績だ。リスカル侯爵の名で知られるカミロは、外交官としてボルドーに在住していた時、ラ・リオハ州の北隣のバスク州アラバ県政府から、メドックのワイン醸造技術に通じた醸造家を探すようにと要請された。間もなく、シャトー・ラネッサンの醸造家、ジャン・ピノーがスペインに派遣され、リオハ・アラベサでボルドー品種が試験的に栽培されるようになったと言う。ピノーはのちに、マルケス・デ・リスカル醸造所にスタッフとして迎えられた。

エルシエゴにあるマルケス・デ・リスカル醸造所は、2006年に、フランク・ゲーリーの斬新な設計が目を引く複合施設「シティ・オブ・ワイン」をオープンした。施設内では、5つ星ホテル・マルケス・デ・リスカル、コーダリーのヴィノセラピー・スパ、ミシュラン一つ星のレストランなどが開業している。

リオハ地方最古の醸造所として知られるマルケス・デ・ムリエタ醸造所も、小型のオーク樽で長期間熟成させるボルドーの技術を、いち早く導入したことで知られる。創業者はペルー出身のルシアーノ・フランシスコ・ハモン・デ・ムリエタ侯爵。彼は1844年にリオハ地方を拠点とし、ワイン造りを志した。高品質のワインを造るために、ボルドーでワイン造りの最新技術を学び、1852年にリオハ地方のイガイ農園を購入、今日のマルケス・デ・ムリエタ醸造所の基礎を築いた。カスティーリョ・イガイはリオハワインの頂点とも言うべき偉大なワインとして知られる。1983年からは、セブリアン=サガリガ侯爵家が醸造所を率いている。

ボルドーの造り手がリオハへ

19世紀後半になると、アメリカ大陸からヨーロッパ大陸へ、ブドウの大敵であるカビ菌や害虫が運ばれてきた。中でも猛威を振るったのがフィロキセラと呼ばれる害虫で、ヨーロッパのブドウ畑のほとんどが壊滅した。最初に被害があったのはフランスだった。

ワインの生産が困難になったボルドーワインの造り手の中には、ピレネー山脈を超え、当時まだ被害が及んでいなかったリオハ地方にやってきた人々がいた。彼らは最初、リオハワインの仕入れを行っていたが、中にはリオハ地方に腰を据えてワイナリーを創業した人物もいた。こうして、ボルドー地方とリオハ地方の交流は、再び緊密になった。

19世紀末のリオハ地方は、ボルドーへの輸出で大いに潤ったという。1877年にはワイナリーが集中するアーロの街に、いち早く電気式の街灯が導入された。1880年にはアーロに鉄道駅が開業し、利便性の高い駅前に醸造所が集中した。ボルドーへの直通の汽車が開通し、「アーロ、パリ、そしてロンドン」というフレーズが生まれほどだった。

その後、フィロキセラに耐性のある米国品種の台木に、ヨーロッパ品種を接ぎ木するという方法が考案され、被害を食い止められるようになると、フランス人は再びボルドーに戻って行った。しかしその頃には、リオハワインは、ボルドーワインに劣らない高品質なものとなっていた。19世紀末から20世紀初頭にはスペインにもフィロキセラが来襲したが、接ぎ木対法が確立されていたため、復興は早かった。

ボデガめぐりが楽しいアーロ

アーロ駅の近くには幾つもの著名ワイナリーが集中している。そのうちの、ヴィニャ・トンドニア(ボデガス・ロペス・デ・エレディア)をご紹介しよう。ワイナリーの蔵は駅舎の至近距離にある。今日、駅舎の周辺はひっそりとしているが、ボルドーとのビジネスが盛んだった19世紀末の繁栄ぶりを偲ぶことができる。

ヴィニャ・トンドニアは創業1877年。創業者のドン・ラファエル・ロペス・デ・エレディア・イ・ランデタはチリ出身だが、両親はともにスペイン人。青年期にフランスへ移住しワイン商となった。フランスがフィロキセラ禍に見舞われると、度々アーロにワインの買い付けにやってきたが、やがてアーロで醸造所を興すことにした。

トンドニアは、数ある所有畑の名称の1つだという。創業以来、畑を重視していたため、醸造所名、ボデガス・ロペス・デ・エレディアよりも畑名の方が有名になった。スペインの固有品種にこだわり、カベルネ・ソーヴィニヨン種などのフランス品種は使用していない。

ヴィニャ・トンドニアは自前の樽工房を持ち、米国からオーク材を輸入し、樽を製造している。リオハワインはアメリカンオークと相性が良い。アメリカンオークを好む造り手も多く、それが個性の一つとなっている。

地元バルをはしご

ワイン産地のリオハ地方は、バスク地方とラ・リオハ地方にまたがっている。例えばアーロはラ・リオハ州に属するが、マルケス・デ・リスカル醸造所があるエルシエゴはリオハ・アラベサ地域で、バスク州に属する。リオハ・ワインの一部はバスク・ワインなのだ。

地元の人々が集まってくる庶民的なバルで、タパスをつまみながら、リオハの赤を味わった。リオハ地方ではバンデリージャス、バスク地方ではピンチョスと言い、その多くが楊枝に刺してある。

地元のバルでは、タパスや小皿料理がすでに出来上がってカウンターに並んでいるところが多い。日本でもたまに見かける、小皿料理がショーケースに並んでいる立ち飲み屋や食堂をふと思い出す。大西洋に近いので、魚介類が豊富だ。よく知られているのが、アンチョビ、ペペロニ、オリーブを楊枝に刺したギルダ、トルティージャ、タコのガシリア風などで、種類は無限だ。どのバルのカウンターにも、アートのようにタパスが並んでいる。バルにはそれぞれ得意料理があり、店が変わればタパスもガラリと変わる。

夜の8時頃から、バルの集中するストリートで、2、3軒はしごし、リオハワインを飲みながら、いろいろなタパスをちょっとずつ味わう。お腹がいっぱいになれば、そこでおしまいにする。タパスは1人旅の強い味方だ。


Photos by Junko Iwamoto

岩本 順子

ライター・翻訳者。ドイツ・ハンブルク在住。
神戸のタウン誌編集部を経て、1984年にドイツへ移住。ハンブルク大学修士課程中退。1990年代は日本のコミック雑誌編集部のドイツ支局を運営し、漫画の編集と翻訳に携わる。その後、ドイツのワイナリーで働き、ワインの国際資格WSETディプロマを取得。執筆、翻訳のかたわら、ワイン講座も開講。著書に『ドイツワイン・偉大なる造り手たちの肖像』(新宿書房)など。
HP: www.junkoiwamoto.com