昨年、ドイツの女性醸造家の草分けであるシュテファニー・ヴェーグミュラーさんが、定年を迎え、引退した。彼女は、ファルツ地方ノイシュタット、ハート(Haardt)地区にある、創業1685年の醸造所の11代目。しかし後継者がなく、醸造所は売却した。

女性の醸造家が皆無だった1970年代のドイツで、様々な困難に直面しながらワイン造りに挑戦し、次世代の特に女性たちに大きな影響を与えたシュテファニーさんにお会いしてきた。

ハート地区は「ファルツのバルコニー」と呼ばれる、見晴らしの良い高台だ。
©Deutsche Weinstrasse/Rolf Schaedler

干しブドウが嫌いな女の子

ヴェーグミュラー家の祖先は、スイス、チューリヒからドイツにやってきた移民だ。1657年にファルツ地方に落ち着き、まもなく醸造所を興した。それから300余年、スイス系の一族は、すっかりファルツ人となった。シュテファニーさんの子供時代にはもう、スイスとの繋がりを感じることは何一つなかったという。食にまつわる思い出話を彼女に尋ねてみると、ザウマーゲン、レバークネーデルなど、ファルツならではの郷土料理の名前がいくつも挙がった。

彼女には、子供のころ、どうしても食べられないものがあった。それはジャガイモのサラダとチーズケーキだった。ジャガイモもチーズケーキも好物なのだが、実家ではどちらにも必ず干しブドウが入っていて、それが食べられなかったのだ。

「醸造家になった私が、子供時代に干しブドウが大っ嫌いだったなんて、おかしいでしょ」シュテファニーさんは笑って言う。ドイツでは、貴腐菌が付いて、干しブドウのように萎んだブドウから最も高価なワインが造られる。シュテファニーさんも、後に幾度かそのようなワインを醸造した。しかし少女時代の彼女は、凝縮したブドウの味わいが苦手だった。

シュテファニーさんは、三人姉妹の真ん中。勉強が嫌いで、しかも相当なお転婆だったそうだ。両親は彼女に手を焼き、8年生から12年生(日本の中学2年から高校3年に相当)まで親元を離れ、当時ドイツで1校だけだった寄宿制のヴァルドルフ・シューレ(シュタイナー学校)に通った。その5年間は、彼女の人生において贈り物のような時期だったという。「ダンスをはじめ、芸術の授業がたくさんあった。勉強を無理やり押し付けられることがなく、それでも毎日、何か新しいことを学び、一歩一歩前進しているという気持ちになれたのよ」そう彼女は語る。

生涯の友人ができたのも、この寄宿舎時代だった。その友人の両親は、寄宿舎の一角に住み、農業と畜産業を営んでいて、生徒たちは11年生になると、そこで農業実習ができるのだが、シュテファニーさんは9年生の時点で、一家が営む農場に通い始めた。自給自足に近い生活を営む一家と、たくさんの時間を一緒に過ごすことで、シュテファニーさんに、将来の夢がみつかった。シュタイナー学校を卒業したら、イスラエルへ行き、キブツ(主に農業中心の共同体)で働こうと考えたのだ。当時キブツは、社会主義的な理想郷とみなされ、世界各地の若者を惹きつけていた。

しかし、シュテファニーさんの夢は母親の大反対にあって叶わなかった。仕方なく、彼女は諦めてドイツで仕事を探すことにした。「どんな職業につこうかと考えていた時、机の前に座るだけの仕事はしたくないと思ったの。できることなら、土にまみれるような仕事がいいなと思ったのよ」。土を触っていられるなら、農業でも、庭師でも、なんでもよかったという。

ファルツ地方の春の風物詩、満開のアーモンドの花。
©Deutsches Weininstitut

思えば、実家はワインの醸造所。父の元では、男たちが土にまみれてブドウを育て、ワインを造っている。彼女は、母親の勧めもあって、ワイン造りに挑戦してみようと考え、実習先を探したが、受け入れてくれる醸造所がなかなか見つからない。当時は「女性はお断り」という醸造所がほとんどだったのだ。

ようやく見つかったのが、ダイデスハイムのバッサーマン=ヨルダン醸造所だった。シュテファニーさんは2人目の女性の実習生だったという。彼女は、ヴァインスベルクの栽培・醸造専門学校にも通った。クラスメートは20人ほどで、彼女はただ1人の女生徒だった。専門学校を卒業すると、実家で働くことを決意した。1984年の春、30年にわたってワイン造りを担当していたベテランのケラーマイスターが退職したので、シュテファニーさんはその後任となった。

その秋、彼女は、実家の収穫ブドウを、初めて自らの責任で醸造することになった。5万リットル分のワインを一手に引き受けることになった彼女に失敗は許されない。幸い、彼女は良きアドヴァイザーに恵まれた。実家の隣は、名門ミュラー=カトワール醸造所である。そこでは当時、腕利きのケラーマイスター、ハンス=ギュンター・シュヴァルツ氏が活躍していた。彼は、シュテファニーさんをはじめ、多くの若手醸造家に慕われ、持てる知識を惜しみなく伝えていた。

シュテファニーさんが実家の醸造所を正式に継いだのは1988年だった。同時に、姉のガブリエレさんが事務を担当しようと申し出てくれた。翌1989年、ヴェーグミュラー醸造所はラインラント=ファルツ州ノイシュタットの農業会議所が実施するワインコンクールで栄誉賞を受賞した。当時は「ゴー・ミヨ・ドイツワインガイド」など民間が授与する賞がなく、農業会議所のコンクールに最も権威があった。ワイン造りを始めて日の浅い、若手の女性醸造家のワインが受賞するなど、異例のことだった。シュテファニーさんは、着実に飛躍への道を歩み始めた。

ヴェーグミュラー醸造所ファサード

ショイレーベとグリューナー・フェルトリーナー

シュテファニーさんのワインは、ドイツの代表品種であるリースリングが中心だ。ハート地区に、ヘレンレッテン、ヘルツォーク、マンデルリング、ビュルガーガルテンの4つの優れた畑を所有し、それぞれ異なる土壌の個性を生かしたリースリングを生み出していた。リースリング以外の栽培品種では、ショイレーベ、グリューナー・フェルトリーナー、ゲヴュルツトラミーナ、リースラーナーに力を入れ、それが他の醸造所とは異なる個性となっていた。中でもショイレーベの生産量はリースリングに次いで多かった。

ショイレーベはシュテファニーさんのトレードマークとなったブドウ品種であり、ヴェーグミュラー醸造所は、ショイレーベの素晴らしさで知られていたと言っても過言ではない。

ショイレーベはラインヘッセン地方のアルツァイぶどう栽培研究所所長だったゲオルク・ショイ(Georg Scheu)氏が生み出したリースリング系の品種だ。交配年は1916年だったが、ドイツで本格的な栽培が始まったのは1950年代だった。シュテファニーさんのショイレーベは、1950年代に父親が植樹したもので、先代のケラーマイスターは甘口に仕立て、可能な年には貴腐ワインを生産していた。

シュテファニーさんは、古樹となって高品質のブドウをもたらしてくれるショイレーベを、現代人の嗜好に合わせ、アペリティフや食中酒にふさわしい爽やかな辛口に醸造していた。ショイレーベには魅惑的な香りがあり、ドイツのソーヴィニヨン・ブラン、などと言われたりもするが、ソーヴィニヨン・ブラン人気の陰で、シュテファニーさんのショイレーベは健闘し、やがて醸造所の人気商品となる。

左からショイレーベ、リースリング(デア・エレガンテ)、グリューナー・フェルトリーナー。2020年はシュテファニーさんのラストヴィンテージ

グリューナー・フェルトリーナーは、オーストリアの白ワインを代表するブドウ品種だ。シュテファニーさんがこの品種に出会ったのは、研修中の1977年だった。同期の実習生がオーストリア人で、彼を通じて、この魅力的な品種を知り、いつか自分でもワインを造ってみたいと思っていた。植樹したのは2009年だった。50歳を迎え、自分への誕生日プレゼントとして苗を植えたのだった。

グリューナー・フェルトリーナーとヴェーグミュラー醸造所には古い縁もあった。オーストリアでは1955年以降、レンツ・モーザー式と呼ばれるブドウ栽培法が導入された。レンツ・モーザー(1905-78)はドナウ川流域、クレムス出身の醸造家であり、彼が考案した、植樹間隔を広く取った、高めの垣根栽培法がそう呼ばれていた。この栽培法は、日当たりと通気性を改善し、作業効率を上げた。当時の寒冷な気候に適していたため、ドイツの醸造所も盛んに取り入れたという。ヴェーグミュラー醸造所でも、シュテファニーさんの父が1950年代にレンツ・モーザー式を導入し、グリューナー・フェルトリーナーも栽培していたらしいのだ。

シュテファニーさんのグリューナー・フェルトリーナーといえば、2011年ヴィンテージが、プロのテイスターを集めてウイーンで開催された、世界各国のグリューナー・フェルトリーナーのブラインドテイスティングで、本場オーストリア産を抜いて、最高得点を獲得し、大きな話題になったことがある。

ショイレーベも、2016年ヴィンテージがワイン専門誌「Wein+Markt」主催のショイレーベ・コンクールの辛口部門で1位を受賞するなど、様々なコンクールで高評価を得てきた。

ドイツでショイレーベ、グリューナー・フェルトリーナーと言えば、真っ先にシュテファニーさんのワインが思い浮かぶ。彼女は自らの存在証明となるような品種を2つも持っていたのである。

ドイツ初の女性醸造家の一人、シュテファニーさん(左)と姉のガブリエラさん
©Stefanie&Gaby Weegmueller

姉妹の絆

シュテファニーさんの姉、ガブリエレさんは、ヴェーグミュラー醸造所のワインの国内、および輸出販売を一手に引き受けてきた。輸出が始まったのは2000年。知り合いのフランスの醸造所の紹介で、米国東海岸のワイン商との取引が始まった。その後、米国西海岸、英国、ベルギーなどからも注文が舞い込み、ガブリエレさんは2005年に独立、ワインの輸出会社を設立した。

ヴェーグミュラー醸造所のワインは、その後、オランダ、フィンランド、スイス、オーストリア、イタリアへと、口コミでどんどん輸出が増えていった。一時期は日本とも取引があった。ガブリエレさんは、特に営業をしたことはないと言う。世界各地から醸造所を訪れた人々が、姉妹の大らかな人柄に惹かれ、縁が縁を呼び、取引が始まるのだった。姉妹はできる限り取引先にも出向き、お互いは深い信頼関係で結ばれている。

ドイツの白ワインは、ドイツ料理だけでなく、和食やアジア料理とも相性が良い。シュテファニーさんのリースリングやショイレーベなどは、輸出先の国々の、主に和食レストランやアジア料理のレストランが扱っているという。

「キュヴェ・ドライ・シュヴェステルン」と「キュヴェ・フロール」

ドイツでは、単一品種からワインを醸造することが多いが、シュテファニーさんは早い時期から、フランスのように、ブレンドワインの生産も始めていた。その1つが、2008年から生産している「キュヴェ・フロール」。母方の祖母の生誕100年を記念し、彼女の名前をつけてリリースした。リースリング、ジルヴァーナー、ゲヴュルツトラミーナの3品種のブレンドで、祖母の時代には、この3品種が同じ畑に植えられ、一緒に収穫され、1つのワインとして醸造されていたので、その伝統を復活させたのである。このようなワインをドイツ語では「ゲミッシュター・ザッツ」と呼ぶ。

もう一つは「キュヴェ・ドライ・シュヴェステルン(三姉妹)」という名前のワインで、2013年から生産している。2012年に早逝した末っ子のミヒャエラさんを想い、三姉妹の絆をワインに表現したものだ。そのため、姉妹がそれぞれに一番好きなブドウ〈シュテファニーさんはショイレーベ、ガブリエレさんはグラウブルグンダー、ミヒャエラさんはヴァイスブルグンダー〉をそれぞれ仲良く3分の1ずつブレンドしている。

ガブリエレさんは、この2つのワインを、「カメレオンワイン」と呼ぶ。複数の品種がブレンドされたワインは、不思議と好相性となる料理の幅が広がるからだ。1品種から造られるワインは、時には相手となる料理を選び抜く必要があるが、ブレンドワインであれば、より気楽に合わせることができる。ドイツでは、造り手がそのことに気付き始め、近年、ブレンドワインが続々と登場している。

姉妹の庭

シュタイナー学校で育まれたスピリット

シュテファニーさんは、「もしシュタイナー学校に行かなかったら、醸造家になろうとは思わなかったと思う」と言う。彼女は、シュタイナー農法であるビオディナミ農法は実践することはなかったが、彼女のスピリットはシュタイナー学校で育まれた。

彼女がシュタイナー農法に傾かなかったのは、両親から継いだ醸造所が、負債を抱えており、経営を立て直さなければならなかったからだ。厳格な規定があるビオディナミ農法は、天候により、収量が不安定になりがちで、時には激減することもあるため、彼女にとっては、あまりにもリスクが大きく、手をつけるわけには行かなかった。

しかしシュテファニーさんは、できる限りオーガニック寄りの栽培法、ワインに優しい醸造法を実践してきた。ワインのクオリティをあげるために、畑では、当然のごとく収量を制限していた。セラーでは、なるべくワインに手を加えなくて済むような方法を探ってきた。果汁をピュアに保つため、白ブドウも除梗し、粒だけでプレスするようにした。ポピュラーな清澄剤であるベントナイトは一切使用せず、ワインは長期にわたって樽、あるいはタンクで酵母とともに熟成させ、ろ過は1回だけ行う。

自然と調和しながら、愛情を込めて造られてきた彼女のワインは、ビオディナミではないが、彼女のスピリットはそれと同じところにあると感じる。

シュテファニーさんは引退したが、彼女は1995年から実習生を受け入れはじめ、これまでにおよそ50人を送り出してきたという。そのうちの半分以上が女性で、現在はそれぞれに実家の醸造所などで活躍しているそうだ。実習生の多くが、彼女から、ワイン造りだけでなく、人間としてあるべき姿を学んだと語っていると言う。これからは、彼女の教え子たちの醸造所をできる限り訪ねていこうと思う。

シュテファニーさんのワインの愛好家には朗報がある。彼女のラストヴィンテージは、すでに市場に出回っている2020年産だが、姉妹は小さなブドウ畑を所有しており、近い将来、ごく少量のワインを生産する計画があるとのことだ。


岩本 順子

ライター・翻訳者。ドイツ・ハンブルク在住。
神戸のタウン誌編集部を経て、1984年にドイツへ移住。ハンブルク大学修士課程中退。1990年代は日本のコミック雑誌編集部のドイツ支局を運営し、漫画の編集と翻訳に携わる。その後、ドイツのワイナリーで働き、ワインの国際資格WSETディプロマを取得。執筆、翻訳のかたわら、ワイン講座も開講。著書に『ドイツワイン・偉大なる造り手たちの肖像』(新宿書房)など。
HP: www.junkoiwamoto.com