今中国で、何一つ派手な演出をしていないのもかかわらず、大人気の動画がある。国内でブームを呼び、国外では投稿動画の総視聴回数が24億8000万回を超えるビデオ・ブロガー、李子柒(リー・ズーチー)の動画だ。
彼女が公開する動画は、いたってシンプル。中国四川省の農村での暮らしの風景、例えば、季節ごとの野菜や果物の仕込みや、家事仕事の過程をまとめた動画だ。ナレーションやカメラ目線での語り、ましてや広告宣伝など一切なく、静かなBGMの合間に聞こえてくるのは、仕事の音だけ。そして時折、祖母と交わす何気ない会話や笑い声が漏れ聞こえてくる。漢族の伝統服を身にまとった清楚な容姿の李子柒が、田園風景の中ひたむきに働く動画は、見ているだけで不思議と心が癒される。もちろん、中国語がわからなくても十分に楽しめる。
何気ない日常の動画が、人々の心を捕えて離さないのは彼女の生い立ちにあるのかもしれない。
1990年生まれの李子柒の子供時代は、不幸の連続だった。まだ学校に上がる前から、両親の離婚と母親の家出、父親の早逝を経験し、心を痛めた祖父母に引き取られた。祖父は料理人で、村で宴会や集会があると一切を任されていたが、農村の暮らしは貧しく生活は苦しかった。その上、小学5年生の時に祖父が亡くなり、祖母と二人きりになってしまう。生活費を稼ぐため、李子柒は14歳で退学、街へ働きに出た。ウェイトレスの仕事や電気工、ナイトクラブでDJの仕事と、早くお金を稼ぎたいと必死で働いた。時には野宿をし、肉まんだけの食事が何日も続くなど、ドラマのような人生は、中国の貧しい農村部出身の人ならば、身につまされる話だ。
転機となったのは、祖母が病に倒れたと聞き、すぐさま帰郷した2012年。祖母の世話をしながら収入を得るためにと、動画サイトに適当な投稿をしたが成功しなかった。しばらくして庭の畑で収穫した食材を使った、中国家庭料理の動画撮影を始めた。料理人だった祖父の傍らで見ていた料理、家庭で祖母の手伝いをしながら学んだ料理は、自然と身に付いていたからだ。すると動画は、食の専門家たちの目に留まり、友人たちの勧めで中国版Twitter、「微博(ウェイボー)」に動画を投稿したところ、人気に火が付いた。2017年には「人気十大美食ブロガー」賞を受賞、微博のフォロワー数は2775万人以上、動画の視聴は平均5000万人規模だ。また、国外向けに開設されたYouTubeでは、「春節の軽食準備」動画の視聴回数が9600万回を超えるなどして、中国語動画でYouTube登録者数世界一となった今年1月、ギネス世界記録にも認定された。
動画の中で李子柒は、篭を背負って山へ行き、果物や木の実を収穫し、畑に野菜の種をまく。家では篭を編み、布を葡萄で紫に染め、布靴から木製の食卓まで全て手作業で完成させる。季節の花が咲き乱れる庭先での手仕事、食材は畑から食卓へ究極の地産地消、持続可能なスローライフの魅力が、画面いっぱいにあふれる。しかも李子柒は、畑の力仕事から料理、木工、彫刻、染め物、縫物に至るまで驚くほど器用にこなしてみせる。演出やごまかしのないその手さばきは、彼女が祖父母から受け継ぎ、街での厳しい人生経験を通して学んできたものなのだろう。
時たま登場する動物たちも実に幸せそうだ。庭先の木陰では猫がくつろぎ、ニワトリが好奇心旺盛に台所の窓から中を覗いている。野道を歩く李子柒の後をボサボサの子羊と少し汚れた子犬が必死に追いかけ、羊毛を紡ぐ傍らでは子羊が不思議そうに糸を噛んでいる。絵に描いたような田園生活に、憧憬を抱かずにはいられなくなる。
動画の要でもある料理のシーンでは、食材の丁寧な下ごしらえ、火を入れる過程、素朴で美しい食事の盛り付けなど、その繊細な手仕事に目を見張る。一方で、絞めた家鶏を丸ごと煮込み、生の豚の脚を中華包丁で勢いよく切り捌くのもお手の物だ。時には大胆に、そして常に丁寧に、淡々と仕事に打ち込む彼女の凛としたたたずまいは、不思議な魅力にあふれ、見ているうちにどんどん引き込まれていく。
また、動画にはレシピや食材についての説明やナレーションが無い(YouTubeでは簡単な英語字幕あり)。それは、中国人にとってごくありふれた暮らしの一場面に過ぎないからであって、日本人の我々にもなじみ深いものが多い。ドキュメンタリーのような上質の動画は、李子柒のアイデアで撮影されるのが基本。当初は全てを自身で手掛けていたが、最近は技術的な部分をアシスタントと撮影チームが担当するようになった。それでもスタイルは変わらず、全編を通して祖母を思いやる李子柒の優しい気持ちと、自然の恵みへの感謝の念に満ちていながらも、農村の貧しい生活や厳しい現実に向き合う彼女の芯の強さを秘めた仕上がりとなっている。
生活のため、誰かのため、ひたむきに働く姿は、いつの時代も人々の心を動かし、言葉や国境を越えて心に訴えかけてくる。経済発展の目覚ましい現代の中国で、人々は物にあふれた消費社会を生き、仕事や学業で疲弊している。田園風景に溶け込むスローライフの概念は、人々の心を癒やすと同時に、伝統文化の良さ、働く人の美しさ、農村や手仕事への敬意、それに優しい心を思い出させてくれる、それが李子柒の動画だ。人工知能や科学技術の進歩で、ますます便利な生活を手に入れても、もしくは手に入れたからこそ、農村生活という原点に憧れるのかもしれない。実現するのは難しいとしても、李子柒の動画を通してスローライフを仮想体験するのも、心がほぐれるセラピーになる。
李子柒YouTubeチャンネル
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Yukari Isemoto-Posth ライター
航空会社、ホテル勤務の後、転勤でヨルダン暮らしをスタート。のちにドバイ、上海、蘇州、北京在住。働き、生活しながら見えてくる地元のカルチャーやライフスタイルを中心に執筆中。雑誌や機内誌、機関誌等に寄稿。