島根県大田市温泉津町にある日祖(ヒソ)という小さな村に「HÏSOM(ヒソム)」という一棟貸しの宿が、2019年夏にオープンした。日祖は、海と山に囲まれた小さな集落で、いまは11世帯が暮らしている。家々は海岸からつながる道の両脇に並び、その道が山につながっている。HÏSOMは、山に入る道の少し手前にひっそりと佇む古民家である。日祖で暮らしてきた住人たちは、その場所を「なにもない」ところという。しかし、その「なにもない」ところには、エメラルドグリーンのビーチと、深い緑色の木々が生い茂る森がある。その場所に可能性を見出したのが、HÏSOMのオーナー近江雅子さんだ。
「おとなの楽園」になる場所
雅子さんは、日祖から山を一つ越えた場所にある隣町、温泉津(ゆのつ)に暮らす。彼女は、島根県江津市出身。故郷を離れてしばらく東京で暮らしていたが、住職である夫・康忠さんが島根でお寺を継ぐことになったのをきっかけに、2013年に島根に戻ってきた。出身地に近い、温泉津は見知った地域ではあったが、日祖という場所を知ったのは東京から島根に戻ってきてからのことだった。美しい海と、豊かな自然に囲まれた日祖という美しい場所に惚れ込み、この場所は将来「おとなの楽園」になると直感した。
雅子さんが住む温泉津町は、その地名にもあるように温泉と海の町として知られている。2007年には近隣の石見銀山とともにユネスコの文化遺産に登録された、昔ながらの街並みが残された観光地である。歴史的には、温泉津港は北前船の寄港地でもあり、銀や日本各地のさまざまな物資の交易と人々の往来が盛んな地域であった。近年、賑わいはなくなってしまったが、泉質や街並みに魅了された人々が訪れる場所だ。雅子さんは、その地でもう一つの宿、「湯るり」を2017年から運営している。湯るりは古民家を改装したゲストハウスで、グループや家族連れが気軽に泊まれる民泊スタイルの宿。日本的なしつらえとモダンな設備に惹かれた外国人のリピート客も少なくない。
湯るりの経営が安定しつつも、雅子さんは日祖への想いを忘れてはいなかった。2018年、日祖の古民家を一軒借りて、モダンなゲストハウスとして改装することを決めた。わずか10世帯ほどが暮らす集落で、かつほとんどの住人がひっそりと定年後の暮らしを営んでいるという場所において、雅子さんの新しいアイディアを受け入れてもらうには時間を要した。しかし、彼女は時間をかけて説明し、少しずつ理解と協力者を得ることに成功。信念があったからこそ、雅子さんは諦めなかった。
「最初は反対意見が多かった集落の人たちと、改修工事が始まる前に一緒になって家を飲み込む勢いで荒れていた庭の雑木林を一緒に切り倒し作業できたとき、反対や不安な気持ちがありつつも協力してくださる心の広さを感じ、この取り組みに対して期待や信用を形にしたいと強く思った」と雅子さんは振り返る。
ゆっくり、ひっそり、こだわりある暮らし
HÏSOMは、湯るりとは異なるコンセプトの宿だ。観光で立ち寄って温泉や街並みを楽しんで帰るというのではなく、長期滞在して「なにもない」土地のよさや、暮らしのあり方を味わってもらうということを重要なポイントとしている。長期滞在のニーズを考えて、HÏSOMでは滞在する人がそこで十分にくつろぎ、暮らすように過ごせるような設備が整っている。心地よく、広々としたベットルームはもちろんのこと、キッチンの設備や備品も充実している。キッチンとリビングルームのガラス張りの引き戸は全面的に解放することができ、パティオスペースとつなげてバーベキューを楽しむこともできる。自炊をしたくない場合は、近隣レストランのシェフによるランチやディナーの出張サービスを頼むことも可能だ。HÏSOMは山に囲まれて携帯の電波が入りづらい場所だが、敷地内はWi-Fi完備のため、休暇とリモートワークを両立させたいゲストのニーズも捉えている。
HÏSOMの改装は、江津市のデザイン会社「Sukimono(スキモノ)」が手がけた。Sukimonoは、雅子さんの弟夫婦、平下茂親さんと悟子さんが隣の江津市を拠点に展開する会社で、建築デザイン、改装、家具・布製品の開発と販売を行う。Sukimonoは、もともとある素材や解体された古い日本家屋などから回収した質の高い木材などを活用した改築・改装を得意とする。HÏSOMの改装も、奇をてらった新しいコンセプトを打ち出すのではなく、元々の構造にあった柱や建具などの素材をできるだけ残し、ゲストが日本の昔ながらの家の雰囲気を感じられるように考慮されたものだ。一方、キッチン、トイレ、シャワーなどは最新の設備を導入した。
HÏSOMのブランディングにあたっては、島根県のクリエイターと、県外・海外のクリエイターでチームを編成。日本人以外のゲストにも共感を得られるような、ウェブサイトや映像を制作するだけでなく、日祖・温泉津のアーティスティックな写真をふんだんに収めた、ハードカバーのコンセプトブックも作成した。HÏSOMは、日祖の地名にちなんだものであり、同時に隠れ家的な場所に「潜む」ように暮らすといった意味もこめられている。HÏSOMのブランドコンセプトは、「Celebrate the joy of slow, quiet, and tasteful living ―ゆっくり、ひっそり、こだわりある暮らしを楽しむこと」だ。
HÏSOM完成前に行ったモニターツアーでは関東から30代の男女が温泉津や日祖の散策に訪れ、地元住民とも交流した。「外からの来た人と交流したりもてなしたりすることは、ここの地区では初めての試みにも関わらず、サザエご飯や海苔汁をふるまってくれ、お酒を飲みかわしながら、本音も話してくれたことが本当に嬉しかった。ツアーの参加者もこの日祖の魅力を味わってくれた」と雅子さんは話す。彼女が期待していた変化が生まれ始めた出来事となった。
HÏSOM | The joy of slow, quiet, and tasteful living from HISOM on Vimeo.
HÏSOMは北欧フィンランドによくある、水辺のサマーコテージでの暮らし方も参考している。遠く離れた島根県とフィンランドだが、豊かな自然と景観、そして自然を大切にした暮らし方など共通点も少なくない。2019年は、フィンランドと日本の外交関係樹立100周年記念の年だったこともあり、日本のフィンランド大使館との連携も試みた。ファンランド大使館からのゲストやフィンランド人留学生を招いて、交流を深め、大使館内の文化関連機関であるフィンランドセンターと協業して「レジデンシー・プログラム」も開催した。レジデンシーでは、2019年の11月〜12月の1ヶ月間の間、フィンランドのシェフと陶芸家の2名が日祖を訪れ、HÏSOMに滞在しながら創作活動を行った。滞在中、シェフは地元住民にディナーを振る舞い、陶芸家は地元の窯元と協力して地元の土や釉薬の研究を行うなど、外からのゲストと地元の住民がつながり、学び合う機会となった。地元の素材や自然を感じながら、クリエイターが創作活動を行い、日祖を気に入り、そして戻ってくる。雅子さんは、長期的にはそういった流れが生まれることを期待している。
実際、HÏSOMに宿泊されたゲストから確信をもらえた瞬間あった。「歌手の方が2週間滞在され、作曲活動をしながら休暇を過ごし、日祖の豊かな自然と静けさの中で滞在を満喫してくださったこと。地域の方々とも交流しながら、私が思い描いていた、観光ではなく暮らしながら田舎の価値を体験する滞在をしてくれた。そしてHÏSOMでの滞在を評価してくれた」と雅子さんは語る。また、東京から来たある3人家族は2泊3日の滞在を満喫したのち、4泊5日の来年の予約を入れて帰ったという。こうした長期滞在のリピーターを増やしていきたいと雅子さんは考えている。
HÏSOM | Artist Residency from HISOM on Vimeo.
魅力溢れる「本当の田舎」
日祖と温泉津の魅力は「中途半端な田舎じゃないところ」と雅子さんはいう。HÏSOMのある集落には自動販売機やお店はない。車で5分、徒歩で20分ほどのところに位置する温泉津の町なかには、旅館やいくつかの商店があるが、24時間営業のコンビニはない。一方、地元の漁師から魚介や海苔をおすそわけしてもらったり、取れた野菜を分けていただいたりすることが度々あると雅子さん。HÏSOMの長期滞在者に、雅子さんがご近所からの食材を届けることも少なくない。
食材だけではない自然環境の恵みも大きな魅力だ。HÏSOMから歩いて3分ほどの距離にある、日祖のビーチは少し奥まった空間で、プライベートビーチのような雰囲気がある。その水は透き通り、太陽の光を受けて、エメラルドグリーンに光り輝く。夕方には刻々と色が変化するサンセットを見ることができる。海と反対側の方向に歩くと、深い緑が生い茂る山道を散策することができる。その昔、海と太陽の神々が日祖の湾にある殿島という場所に降り立ったとされている。そして、その神々はしばらく日祖に滞在したのち、山道を進み、旅を続けたそうだ。日祖の地名の由来は、まさに太陽の祖先という意味で、日祖に暮らす人々は太陽の神が滞在した場所として、この場所に特別な思いを寄せている。
「コロナで世間がこんな状態になってからは、すべての予約が一時白紙にはなったものの、この『なにもない』、自然豊かで静かな田舎町の価値が少しずつ人々に伝わってきていると感じる。大事な人とともに、ゆっくり、ひっそり、自然の恵みを過ごしに来られる」と雅子さん。パンデミック以前に描いていたビジョンが、パンデミック以降に顕在化したニーズと重なる。
田舎には「なにもない」。だからこそ、本当に必要なサービスを作り出していくことができると雅子さんは考える。そこでの唯一のサービスとして存続していける可能性を見出している。湯るりに続き、HÏSOMを開業した雅子さんだが、彼女の挑戦は続いている。「HÏSOMはまだまだスタートしたばかり。ゲストに温泉津・日祖の魅力、食材をもっと手軽に体験し、味わってもらえるような仕組み作りや、日祖の植物や海藻を使った食品、お土産品の製造。HÏSOMから世界に発信するコンテンツを作っていきたい」と雅子さんは言う。昨年は、地元に根ざした活動の一つとして、地域の仲間たちと協力し、地元の食材を使ったビール「ゆのつエール」・「温泉津ビール」、果実酒「ユノツシードル」を開発、販売した。地元メディアにも大きく取り上げられて反響を呼び、初回醸造バッチはすぐに完売となった。
雅子さんは温泉津にさらに2件の宿をオープンすべく、現在準備を進めている。一つは、HÏSOM同様、古民家一棟貸しの宿「燈 TOMORU」、そしてもう一件は、地元とゲストのニーズに応え、かつ彼らの交流の場をつくるための、ランドリー・カフェ&ドミトリー「WATOWA」だ。TOMORUは、HÏSOMよりコンパクトな1〜2人利用にちょうどよい古民家。中長期滞在で、食や心をリセットするための宿だ。ファスティングやお寺での体験といったプログラムも提供する予定。この宿はペット帯同も可能で、温泉津に移住したような体験ができる場所だ。一方、WATOWAはよりリーズナブルに中長期滞在したい人向けの宿。温泉で体を癒す「湯治」や、テレワーク、合宿といった幅広いニーズに応える。カフェやランドリースペースを併設することで、ゲストが温泉津の住民と繋がる、さらに近隣の旅館に滞在するゲストなども交わり、いろいろな文化や人が繋がるような場所にしたいと雅子さんは思い描く。カフェでは温泉津の豊富な食材を使ったメニューを開発する。また、お土産商品の開発や販売を行うことで、温泉津の新しい価値を発信していく場にする構想だ。
湯るり、HÏSOM、燈(TOMORU)、WATOWA、そして温泉津を代表する宿泊施設として存続してきた温泉街の旅館。いろいろな客層が温泉津を訪れることで、異文化が交わる場所になっていく。観光スポットを作って観光客を誘致するのではなく、ありのままの価値を新しい客層にどう伝えていくかが鍵となる。中長期滞在や、繰り返しの訪問で温泉津のファンを増やす。そして長期的には温泉津に移住する人を増やしていきたいと雅子さんは考える。
「新しい挑戦をしたい人、移住を考える人たちに温泉津を選んでもらえるようにしたい。ここはポテンシャルの高い地域だと確信している」と雅子さん。彼女の挑戦は始まったばかりだが、変化のスピードは速い。インタビューを、彼女は力強い、前向きなメッセージで締めくくった。
「温泉津はもっともっと楽しくなる。」
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最寄りの「温泉津駅(JR山陰線)」よりタクシーで約5分
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*温泉津温泉街までは徒歩で約15分、車で約5分
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