スイス、ジュネーヴから列車で約40分、オリンピックの首都として知られるローザンヌの街に滞在する機会があれば、レマン湖対岸のエビアン=レ=バン(Évian-les-Bains)を日帰りで訪れることができる。定期船の乗り場は、メトロのウシー・オリンピック駅から徒歩5分、船旅は片道約40分ほどだ。清らかな水を湛えるレマン湖の中央がフランスとの国境で、船上からは、スイス側の急傾斜のぶどう畑とフレンチ・アルプスの片鱗を眺望することができる。

人口約9,000人ほどのコンパクトな街、エビアン=レ=バンは、世界中で飲まれているナチュラルミネラルウォーター「evian(エビアン)」の採取地として名高い。街には天然水が渾々と湧く泉がいくつもあり、地元の人々が水を汲む姿が見られる。かつては貴族や文化人たちに人気の保養地だったので、見所も多い。街歩きの際には、道路に埋め込まれた水滴の形をした金属製の道しるべを辿れば、名所をひと回りできるようになっている。

観光船を降りて、レマン湖沿いのプロムナードを西へと進むと、リュミエール宮殿、市庁舎、劇場、そしてカジノが堂々と立ち並んでいる。リュミエール宮殿は1902年に建てられたスパで、当時はシーズンである春から秋にかけて、毎日1,200件もの鉱泉治療が行われていたそうだ。現在は展覧会場および会議場となっている。エントランスの両サイドの、ジャン・ベンダリーによる水をテーマとした壁画が美しい。

さらに歩いて行くとノートルダム・ド・ラソンプシオン(聖母の被昇天)教会にたどり着く。サヴォア風ゴシック様式の教会は、13世紀後半に建設され、その後、幾度にもわたって増改築された。教会とその周囲は、サヴォア家のピエール2世伯爵(1203-1268)が、エビアン=レ=バンを街として発展させる際の拠点となった最も古い一角で、当時は硬貨の鋳造工房もあったという。街の経済活動の核を成した市場広場も、この時代に整備され、当時は木造の屋根が備えられていたそうだ。サヴォイア家の居城は現在は廃墟となっており、塔と市壁が一部残っている。

市民の生活水であるカシャの泉

この近くの「カシャの泉」に流れ出る天然水は、地域の生活水であり、誰もが好きなだけ汲むことができる。18世紀末までは、ここに聖カテリーヌ教会があり、かつては聖カテリーヌの泉と呼ばれていたそうだ。泉に近づくと、水を汲み終えたばかりの地元の女性が「エビアンの水よ! あなたも飲んでいきなさいね!」と声をかけてくれた。

サヴォイア家による街づくりが始まってから約500年後、フランス革命が勃発した1789年に、学者だったジャン=シャルル・ドゥ・レセール公爵は、革命による動乱を逃れてこの地にやってきた。彼は腎臓結石に悩まされていたが、当時、ガブリエル・カシャ氏が所有していた庭園に湧く泉の水を飲み続けているうちに病状が回復した。やがて医者たちがカシャの鉱泉に注目するようになり、その評判は、欧州中に知れ渡ることとなった。

1826年にはカシャの鉱泉を利用したスパとボトリング工場がオープン。1869年にはエビアン・ミネラルウオーター・カンパニーが立ち上げられた。1903年には、建築家ジャン=アルベール・エブラールの設計によるアールヌーヴォー様式のポンプルームが建設され、「水の神殿」と呼ばれた。ポンプルームは修復の必要があり、現在閉鎖されているが、美しいファサードが往時を偲ばせる。建物の一部は、インフォメーションセンターを兼ねたブティック「レスパス・エビアン」としてオープンしており、エビアンのミネラルウオーターについて、詳しく知ることができる。

エビアンの水は、アルプス山脈の一部であるシャブレ山地の標高850メートルのところに降る雨や雪解け水が、地層でおよそ15年の年月をかけて濾過されたものだ。地層の上部と下部には、モレーンと呼ばれる氷河由来の厚い堆石層があり、清らかな土壌を守り、ピュアな水質が保たれている。一帯では水質汚染の原因となる農業、畜産業、工業などが禁止されている。

徒歩とケーブルカーで街を探索

エビアンは坂の街だ。1907年から1913年にかけて街中に電動式のケーブルカーが設営された。1969年に一旦廃線となったが、2002年に復活し、現在も利用されている。カシャの泉、高台にあるホテル・ロワイヤル、ユニークな木造のコンサートホール「グランジュ・オー・ラック」などにアクセスしており「小さなメトロ」の名で親しまれている。10時から19時半まで、20分おきに無料で運行しており、時間に余裕があれば、ケーブルカーで高台へ行き徒歩で街中へ降りてくるコースの、軽いハイキングがおすすめだ。

初めての街を歩き、ガイドブックに頼らずにレストランを探す時、店の佇まいに店主の人柄を感じてなんとなく魅了されて入り、思いがけず美味しい食事を味わえることがあるが、今回のエビアンでも、今年4月にオープンしたばかりの素敵なレストランに出会うことができた。料理人、ジル・マルキ(Gilles Marquis)さんが営む「アンスタン・グルマン(Instant Gourmand)」だ。 教会に近いリュー・ド・エグリーズ10番地の小さな店は、カフェのような外観で1人でも気軽に入れる。訪れた日のランチは、アントレがウフ・パルフェ(温泉卵)で、メインが鱈のグリーンソース。料理はとても丁寧に作られていた。ジルさんは、手がすくとカウンターに現れ、お客との対話の時間を大切にしている。友人宅のようにくつろげる店だった。

今回の旅は、ノートルダム・ド・ラソンプシオン教会の向かいにあるインフォメーションセンターでいただいた地図だけを頼りに歩いてみた。エビアンは、ガイドブックに頼らず散策するのにふさわしい規模の街だった。

エビアンは食品大手ダノン社のブランドウオーター。同社は、ホテル・ロワイヤル、ホテル・エルミタージュ、スパ、テルメ、グランジュ・オー・ラック、キッズ・リゾート、ゴルフクラブ、カジノなどを擁するエビアン・リゾートを経営。湖畔に近いエビアン・ル・テルメでは、デイリーチケットでフィットネス・プログラムと一部の施設利用が可能。ボトリンク工場を含む見学コース(evian experience)は、インターネットで48時間前までに予約が可能。専用のマイクロバスで移動する。


All Photos by Junko Iwamoto

岩本 順子

ライター・翻訳者。ドイツ・ハンブルク在住。
神戸のタウン誌編集部を経て、1984年にドイツへ移住。ハンブルク大学修士課程中退。1990年代は日本のコミック雑誌編集部のドイツ支局を運営し、漫画の編集と翻訳に携わる。その後、ドイツのワイナリーで働き、ワインの国際資格WSETディプロマを取得。執筆、翻訳のかたわら、ワイン講座も開講。著書に『ドイツワイン・偉大なる造り手たちの肖像』(新宿書房)など。
HP: www.junkoiwamoto.com