何度も訪れたロンドンで、初めて、異次元への扉を見つけた。スーパーマーケット脇のアスファルトを敷き詰めた、だだっ広い駐車場内を通り、行き止まりに見えた一角をまたいだ途端、景色が一変したのだ。目の前には草木が茂る小道がある。7、8メートル進むと視界が開け、「ようこそ、マッドシュート・パーク・アンド・ファームへ。ご滞在をお楽しみください」のシンプルな看板が立っていた。右手に行くと羊たちが草を食べるのに夢中になっていて、柵に近づくと数匹が愛らしい顔をこちらに向けた。

犬ケ島にて、超高層ビル街を越えて

ここは、テムズ川に面した半島、ドッグ島(Isle of Dogs)にある「マッドシュート・パーク・アンド・ファーム」だ。牛、豚、山羊、馬、アルパカ、鶏、小鳥、アヒルなどが住み、野原が広がる大きな農園で、都会にある農園としてはヨーロッパで最大だという。地元の人たちが管理メンバーの慈善事業「マッドシュート協会」が運営していて、明け方から夕方まで毎日、無料開放している。

Isle of Dogsと聞くと、日本を舞台にした2018年のストップモーション・アニメ映画「犬ヶ島 (原題 Isle of Dogs)」をつい思い浮かべる。ドッグ島も、マッドシュート農園が開園される以前、アニメの中の犬たちが隔離されたゴミ処理場の島に近い状態のときがあった。

貨物船が出入りし、船舶修理、金属や化学品製造、加工食品業など、様々なビジネスが発展した有名な港湾地区(船着き場)として栄えていたドッグ島は、第二次世界大戦のとき、空襲で無残な状態になった。その後、復興を遂げたものの、海の物流がコンテナ化したことに追いつくことができず、港が閉鎖になった。この地区は一気に輝きを失い、失業者があふれて問題が多発したのだという。

いまドッグ島は再開発が成功し、ロンドン第2の金融街となったカナリー・ワーフのおかげで、バイタリティーにあふれる。交通も便利で、住宅も増え新たに住み始めた人たちもぐんと増えた。カナリー・ワーフを電車で通り抜けて、南部のマッドシュート農園へ行く途中、車窓を流れるビルの高さに少し圧倒されそうになる。農園は、この再開発に飲み込まれないようにしようとした住民たちのプロジェクトだった。草木を植え、動物たちの安住の場を作り、いまの形が徐々に出来上がった。

ちなみに、この半島が、なぜドッグ島という名前なのかは謎だ。諸説があって、ここにいた農家の名前だったとか、昔、王が近くにあったグリニッジ宮殿に住んでいたときに王室の狩猟犬がこの半島で飼われていたからとか、半島に死んだ犬が流されてきたからだというものまである。

ただ、その場にいることを楽しむ

マッドシュート農園は、週末に訪問者が増える。訪れた日は平日で、しかも、ずっと小雨で、ベビーカーで子供を連れた母親たちと遠足で子供のグループが来ていたくらいだった。

動物たちは、遠くに高層ビルが見えることなんてまったく気にしていない。マイペースで草を食べ、歩き回り、または、ただ静かに立ち続けたりうずくまったりしている。そんな、ゆったりと流れる時間に合わせるようにして、緑を眺め、雨音に耳を傾け、ときどき深呼吸し、雨で濡れた葉にふれて、遅すぎるほどゆっくりと農園を回った。

ロンドンに来てわざわざ農園に来るなんて、と一瞬思った。雨の日も、ショッピングする、美術館を訪れる、映画を見る、パブで過ごす、アフタヌーンティーを味わうなど、エキサイティングなことは盛りだくさんなのに。でも、なんだろう、温泉につかっているような、心と体がふやけていく感覚にじわりじわりと包まれて、「ああ、来てよかった」と心の中でつぶやいた。

メンテナンスは、市民自身で

農園には職員がいるが、市民ボランティアは大きな助けだ。2016年度は、企業からは1200人が、個人は700人がボランティア活動をした。自然環境を守り、動物を大切にするという環境保全の面と、市民に田舎の雰囲気を楽しんでもらい、とくに子供たちに自然について学んでもらう福祉的・教育的な面を軸にして、手入れを続けている。

企業単位でだと、朝、農園に来て簡単な説明を受け、10時過ぎから16時ごろまで作業する。休憩や1時間のランチブレイクがあり、およそ4時間半働く。農園側は楽しみながら働いてもらいたいと思っていて、本当にその通りになる。

「ドッグ島に住んで働いているのに、マッドシュート農園のことを全然知らなかった。こんなに広い農園を維持しているのは素晴らしい。維持に費やしている時間と熱意に尊敬する。ボランティアをして、それがわかってよかった。小さい援助だけれど、やりがいがあった」。そんな感想が、いつも聞かれるそうだ。そして、次回、また次もと、参加の鎖がつながっている。

素朴なカフェは、30代の女性料理人がオーナー

農園は、動物も草間に咲く小さな花も鉢植えも、どこを切り取っても可愛らしい。市民たちの愛情が詰まっているからだろうか。

可愛らしいといえば、カフェ「マッドシュート・キッチン」もだ。テラスには、水色と黄緑色のパラソルが並ぶ。ここで出している料理やお菓子は、すべて手作り。

イングリッシュ・ブレックファスト(卵料理、ベーコン、ソーセージ、マッシュルーム、ベイクドビーンズ、ハッシュブラウンと胚芽パンのトースト)、肉の代わりに焼いたトマトにしたベジタリアン版ブレックファスト、ジャケットポテト、スモークサーモンとスクランブルエッグをのせた胚芽パンのトースト(サワークリーム添え)、各種パニーニ(フライドポテト付き)、パスタ、サラダ、スープなど、イギリスらしいものもあるし、季節に合った料理も出している。メニューは、数年前からオーナーになった女性料理人が考えている(カフェ経営は農園から独立)。

オーナーはいろいろな国で料理の経験を積み、マネージメントも勉強して、始めのころは何から何までやっていた。手頃でおいしいものを出そう、もっとたくさんの人たちに来てもらおうと努力した甲斐があって、食事に来る人たちは年々増えている。週末に100食の朝食を出すことも珍しくないそうだ。待ち時間が長くても、たとえ1時間待ちでも、みんな、ちゃんと待つというから、この農園に来たら、すべてはのんびりモードでいい。

食事する人たち、外の様子、壁に貼られた動物の写真を見たりして、注文した紅茶を、時間をかけて飲み干した。

リフレッシュが済んだら、異次元の扉から出て、またロンドンの喧騒に繰り出そう。マッドシュートのおかげで、残りの滞在を、いつも以上にエンジョイできそうだ。


All Photos by Satomi Iwasawa

Mudchute Park & Farm (マッドシュート・パーク・アンド・ファーム)

【アクセス】
鉄道なら、DLR(ドックランズ・ライト・レイルウェイ)線

【開園時間】
公園:毎日 明け方~夕暮れ
農場エリア(動物がいる場所):毎日 9時~17時
カフェ:月曜休み 火~金は9時半~15時、土日は9時半~17時
ショップ:月・金曜休み 火~木は11時~13時、土日は11時~17時 

岩澤里美

ライター、エッセイスト | スイス・チューリヒ(ドイツ語圏)在住。
イギリスの大学院で学び、2001年にチーズとアルプスの現在の地へ。
共同通信のチューリヒ通信員として活動したのち、フリーランスで執筆を始める。
ヨーロッパ各地での取材を続け、ファーストクラス機内誌、ビジネス系雑誌/サイト、旬のカルチャーをとらえたサイトなどで連載多数。
おうちごはん好きな家族のために料理にも励んでいる。
HP https://www.satomi-iwasawa.com/