シュトゥットガルトから電車とバスを乗り継ぎ、1時間半ほどでマウルブロン駅に到着。そこから5分ほど歩くとブドウ畑と豊かな自然に囲まれたマウルブロン修道院が見えてきた。

修道院と聞くと、静寂と厳粛な空気に包まれた石造りの重厚な建物を思い浮かべるだろう。そして修道士たちは、厳しい戒律のもとで「礼拝、学習、労働、断食」を順守した。

なかでも断食は、食べ盛りの修道士たちにとって苦行だったようだ。合計すると1年の3分の1以上に及ぶ断食期間は、1日に1回だけ精進料理を食することが出来た。

そこで修道士たちは肉入りのパスタ「マウルタッシェ」を考案した。大型ラビオリのような形をしたマウルタッシェの詰め物は、皮に包まれているため外から見えないのがポイント。見た目は精進食、実は詰め物の野菜に肉の細切れを忍び込ませた一品だ。必要は発明の母なり。彼らは、断食中に肉入りマウルタッシェを喜んで食したのは言うまでもない。

カーニバルから続いていた40日の断食期間は、まもなく訪れるイエス・キリストの復活を祝うイースター祭(今年は4月21日)で終了する。マウルタッシェ発祥の地といわれるマウルブロン修道院を訪ねた。

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旧シトー会マウルブロン修道院

マウルブロン修道院は、ドイツ南西部バーデン・ヴュルテンベルク州にある旧シトー会修道院。シトー会の発祥は11世紀末、フランス・シトーに設立された修道院でキリスト教修道士の団体だ。世俗の人間が立ち入ることのできなかった独特の世界で禁欲的な集団生活を過ごした修道士たちだが、そのなかでもシトー会は特に労働と学習を重んじたという。修行の徒として身を捧げ、生涯のほとんどを修道院で過ごした彼らは、白衣を身につけていた。その白は「自己犠牲、清貧、福音主義」を象徴したそうだ。

修道院の設立は12世紀中頃。13世紀には、礼拝堂と南回廊、診療所や総会室、所蔵室や製粉所など生活に欠かせない設備や建物が修道院敷地に整った。14世紀になると、北、西、東の回廊が建られた。こうして修道院と付属施設は壁と堀で完全に囲まれ、街から独立したコミュニティーとなった。

400年がかりで完成された建造物は、ロマネスクから後期ゴシックの建築様式の推移が見られる。中世の建築芸術を代表する存在として1993年、ユネスコ世界遺産に登録された。

マルティン・ルターの提唱した宗教改革の潮流を受けて、修道院は一旦解体した。そして15世紀中頃、敷地内にプロテスタント教会付属の神学校が創設された。この学校ではドイツの作家ヘルマン・ヘッセや天文学者ヨハネス・ケプラーも学んだ。ヘッセの有名な小説「車輪の下」の舞台は、この修道院だといわれている。
現在はラテン語、音楽、宗教を重点にした全寮制のギムナジウムとなり、9年生から12年生の生徒60名ほどがここで学んでいる。

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静寂な世界で修道士の生活を垣間見る

全長1キロメートル程の防御塀に取り囲まれた修道院の中庭に足を踏み入れると、静寂な中世の世界にタイムスリップしたようだ。
なかでも院内の回廊や食堂、玄関ホールは、ほぼオリジナルの状態で保存されており、見ごたえたっぷり。修道士が歩きながら瞑想出来るよう造られた回廊は、規則正しい配列の柱や壁を飾る墓標が美しい。

北の回廊にある大きな噴水は、14世紀に造られた。言い伝えによると、この噴水がある場所は、かつてラバが泉を掘り当てたとか。修道士たちはここで手を洗い、対面の食堂に向かった。中世から延々と水を落とし続けている噴水前は、写真を撮る観光客が絶えなかった。

修道士たちは、聖堂での祈り(1日7回)を主にした清貧で秩序ある生活を送っていた。労働は多岐に渡り、畑仕事、調理、家畜の世話、パンやチーズを作ったり、掃除に鍛冶屋など、生活に必要なありとあらゆる仕事が割り当てられた。裏山の畑で収穫したブドウでワインを醸造し、湖では魚も捕った。

マウルブロン修道院では、庭仕事や料理、鍛冶など、重労働を担当した修道士とラテン語の読み書きができた修道士が共存していた。そのため食堂や寝室などすべて2つずつあり、階級により生活は二分されていた。知的な修道士の方が何かと有利だったのではと思うかもしれないが、食事の量だけは重労働担当の修道士の方が多かったという。

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では彼らの食事にはどんな規定があり、どんなものを食べていたのだろうか。

毎日供されたものは、500グラムの黒パンと果物、グラス1杯のワイン。しかもワインは水で薄めて飲んだという。また農園で収穫した穀物や野菜を中心に、魚やチーズ、卵も食した。

食事の回数や食材も決められていた。1日の食事は、夏季2回、冬季1回だけ。油分なし。肉は鶏肉を食した。病に伏した時だけ、豚や牛肉を口にすることが出来た。断食期間の食事は1日1回のみで、肉類を口にすることは許されなかった。

食堂に集まった修道士たちは長いテーブルを囲み一斉に食した。食事中の私語は厳禁。そのため手の会話で意志表示をしていたそうだ。とはいえ、食事中は、当番制で修道士が壇上から説教を朗読していたというからリラックスして食事を楽しむ時間もなかったようだ。壇上からは食事中の修道士がよく見え、彼らの動向を監視することも兼ねていたという。

ガイドさんによると、断食期間は年間160日ほどあったという。キリスト教信者は金曜日に肉を食べないが、それだけでも年に50日以上。また、カーニバルが終わってからイースターまでの約40日間、クリスマスを迎える前の約40日間と、ざっと計算しただけでも1年の3分の1以上つまり少なくとも3日に1日は断食せねばならなかった。

食い気から生まれたマウルタッシェ

そこで考案されたのが、長い断食期間を乗り切るための肉入りマウルタッシェだ。詰め物に野菜のみじん切り(玉ねぎやホウレンソウなど)や香料と共に、肉の細切れを混ぜたものを皮で包んだいわゆる精進食だ。

断食中にも肉が食べたい!という思いから機転を利かせてマウルタッシェを編み出した修道士たち。「彼らもやっぱり食欲には勝てなかったんだ」と、思わず笑ってしまった。 

マウルタッシェの名前の由来は、マウルブロンのマウル(動物の口)とタッシェ(袋やカバンの意)だというが、本当にここの修道士が考案したのかどうかは謎に包まれたままだ。またシュトツットガルト周辺のシュワ―ベン地方ではマウルタッシェを通称「神を欺いた一品(Herrgottsbescheisserle)」と、親しみを込めた呼び方をしている。

マウルタッシェは、手作り品が一番美味しいが、スーパーでも手軽に入手できるようになった。特に寒い日はブイヨンスープの具として食するのがお勧め。肉の旨味がたっぷり出たスープは、心も身体も温めてくれるごちそうだ。また焼いても煮ても美味しい。最近は、野菜とひき肉入りの他、サーモン入り、正真正銘のベジタリアン用や小ぶりのスープ用など多種多様な商品が販売されている。

修道院の敷地内にはマウルブロン市庁舎や警察署、薬局、そしてレストランやカフェもある。また街の名マウルブロンは、「マウル」と「ブロン(ブルネン)・井戸や泉」に由来する。敷地内にある市庁舎外壁には、街を象徴する井戸水とラバの姿が見られる。

早速レストラン「Zum Klosterkeller」に入り、マウルタッシェを注文した。地ビールと共に食するひき肉入りマウルタッシェは塩味もちょうどよく、後を引く美味しさだった。

食事を済ませ、再び建造物群を見学した。旅の最後はコーヒー店で一休みしながら、中世の修道士たちに思いを馳せた。飽食時代の現代人は、ダイエットのために断食に精を出す。中世の修道士たちは、断食期間の乗り切るためにマウルタッシェを考案した。

神の目を盗んで肉を食した・・・そんな背景を知ると、修道士は「厳粛で近寄りがたい」というイメージとはかけ離れて、ぐっと身近な存在になるだろう。


All photos by Noriko Spitznagel (一部提供)
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シュピッツナーゲル典子・国際ジャーナリスト連盟会員・ドイツ在住
寄稿先はYahoo!News個人、週刊東洋経済、薬局経営者専門誌、日本通運会報誌、日経BP、朝日デジタル旅、連合、小学館など。ドイツを中心に欧州の話題を発信中。働くドイツ人女性のインタビュー記事も多数手掛け、女性の働き方に注目。市場視察やTV番組制作コーディネーター、見本市通訳としても活動。
HP:www.norikospitznagel.com