2000年以降、ベルリンは面白かった!

ベルリンの壁崩壊から10年たったころのベルリンが面白かったという人が多い。クラブでは毎晩のようにクレイジーなパーティーが開かれて、音楽にしろアートにしろ、何かやろうと思えば何でもできたという。今ベルリンを訪れると、そんな混沌とした時代の遺跡のようなものは残っているものの、大手資本が入り込んだ建設ラッシュは続き、気軽に週末旅行を楽しむヨーロッパの他の国からのツーリストたちはカジュアルに街を歩いている。もう、怪しさもなくて、どこにでもあるヨーロッパの街と錯覚しそうだ。でも、それは錯覚。当時アグレッシブに生きた人たちは、今はそのスピリットを未だに大切にして、若い世代を優しく見守っているような気がする。いまだに、ベルリンはその精神性において時代の先端を走り続けていて、魅力的なのだ。

とっても特殊な西ベルリンの状況

第2次世界大戦後すぐ1945年には、ドイツは、アメリカ、イギリス、フランス、旧ソ連の4カ国が分割占領し、共同管理されることになった。首都だったベルリンも同様に分割占領され共同管理される。ドイツが国として西と東に分裂したのは1949年。アメリカ、イギリス、フランスが占領していた西側の領土と、ソ連が占領していた東側領土の間に国境が生まれて、二つの国になった。しかしベルリンは相変わらず、西側はアメリカ、イギリス、フランスが占領統治し、東側のソ連が統治していた部分は東ドイツの首都となった。(ちなみに、西ドイツの首都はボンだった。)飛び地となった西ベルリンは、西ドイツでもない3つの国の統治領で、その広さは東京23区を一回り小さくした程度だった。それでも、東西ベルリンの往来は1961年にベルリンの壁ができるまでは自由だったという。ベルリンの壁ができた後、東西を往来するためのゲートの一つ「チェックポイントチャーリー」は、今でも大通りの真ん中に残されている。東ベルリン側を歩いてみると、通りのわきには東ドイツのエンブレムがそのまま残されていた。

東ドイツの真ん中の西ベルリンの領土を囲んでいたベルリンの壁が崩壊したのは1989年。翌年1990年にドイツは統一された。いったい誰がそんな当時の西ベルリンに住みたいと思うだろう。
その理由にはいろいろあるだろうが、次の二つは興味深い。

・西ドイツでは徴兵制度があったのだが、西ベルリンにはなかった。
・飲酒ができる店舗に、強制的な閉店時間が設定されていなかった。

周りをぐるりと共産圏の東ドイツに囲まれた土地で、第2次大戦中は敵対した3つの国に統治されていたものの、徴兵もなく、夜通し酒を飲み人と出会い会話することができた西ベルリン。ある種の人によっては、魅力的だっただろう。リスクを恐れず、人たちとコミュニケートすることを楽しみ、コラボレーションを生み出すようなキャラクターなら、そこに住む理由があったのかもしれない。

オーガニック食材の朝市と、蚤の市に出かける

ベルリンの食料品店やスーパーマーケットに行けば「BIO」とあちこちに書かれている。これは、オーガニックという意味だ。野菜はもちろん、肉類、調味料、それに洗剤、化粧品にまで、BIOのマークがある。オーガニックにこだわる商品も多く並ぶ、

コルヴィッツ通りは朝のマーケットで賑わう。500mほどの通りに、新鮮な野菜や果物、肉類、スィーツなど、オーガニックのBIOをうたう食品を中心にたくさんの屋台が並ぶ。また、イタリアのラビオリ、フランスのマカロンに、トルコの小麦粉の生地を薄く焼いたものに肉など巻くギョズレメなど、EU各地の料理も多い。そして、もちろんドイツ伝統の料理も。「ケーゼクーヘン」はドイツのクバークと呼ばれるフレッシュチーズを使った伝統のチーズケーキ。屋台で売られていたチューリンゲンで作られたソーセージを使ったホットドッグをいただいた。しっかりとしたパンはサイズが小さくて、スナックならちょうどいい。滴る肉汁が食欲を掻き立てる。

マウアーパークでは、毎週日曜日に蚤の市が開かれる。広い敷地に、数えきれないほどのテント。どうみて見ても役に立ちそうもない電気製品の一部分と言った本物のジャンクから、パブの飲み物に敷くコースター、CDや書籍に、これはというヴィンテージの食器や衣服、それに新しい洋服やアクセサリーなど、ゆっくり見て回れば一日かかりそうだ。でもご安心を。ここでも、旨そうな食べ物の屋台が多く並んでいる。ハンバーガーに、ケバブ、温かいサンドウィッチにスープなどなど。ここでつまんだフライドポテトが旨かった。ケチャップとサワークリームの取り合わせがいい。運動公園との境の土手には、まだベルリンの壁の一部が残されているが、ベルリン子たちは、青空の下でそれぞれの休日を楽しんでいた。

Photo by Atsushi Ishiguro

ドイツソーセージとフライドポテトというジャンクなコンビが、ケチャップとカレー粉に出会ったのが「カリーブルースト」だ。

カリーブルーストを作って食べた

カリーブルーストが誕生したのは1949年の西ベルリン。ファーストフードの店を営んでいたヘルタ・ホイヴァー (Herta Heuwer)という女性が、イギリスの兵士からケチャップとカレー粉を譲り受けて、カリーブルーストのレシピを完成させた。1974年まで続けたこの店では、カレーブルーストを一週間に1万食売ることもあったという。ソーセージにフライドポテトというありきたりであり、ドイツ人の生活に必須な食材に、ケチャップとカレー粉を使うというシンプルな方法で新しい食べ方を提案して、大ヒットしたのだ。

Photo by Atsushi Ishiguro

帰ってから、カリーブルーストを作って食べた。ドイツソーセージとフライドポテトという、明らかにドイツと言った取り合わせだから、これと言って特別感はない。一度茹でてから焼いたソーセージにちょっと酸っぱめにしたケチャップソースをかけ、揚げたてのポテトには普通よりぽってりと仕上げたマヨネーズ。その上にカレー粉を振る。ケチャップはもともとインドで生まれたともいわれているから、確かにカレー粉との相性がいい。濃厚なマヨネーズでポテトを食べるのは、ヨーロッパではメジャーなジャンクのベストマッチングだ。

そして、これがビールに合う。面白さと言えば、カレー粉のみと言ってもいいのだが、このジャンクな感じが自由なベルリンを思い出させてくれる。


All photos by Atsushi Ishiguro

石黒アツシ

20代でレコード会社で音楽制作を担当した後、渡英して写真・ビジネス・知的財産権を学ぶ。帰国後は著作権管理、音楽制作、ゲーム機のローンチ、動画配信サービス・音楽配信サービスなどエンターテイメント事業のスタートアップ等に携わる。現在は、「フード」をエンターテイメントととらえて、旅・写真・ごはんを切り口に活動する旅するフードフォトグラファー。「おいしいものをおいしく伝えたい」をテーマに、世界のおいしいものを食べ歩き、写真におさめて、日本で再現したものを、みんなと一緒に食べることがライフワーク。
HP:http://ganimaly.com/