【ダダイズム】と呼ばれる芸術運動を知っているだろうか?
しばしば単に【ダダ(Dada)】とも呼ばれるこの運動は110年前の1916年2月、スイスのチューリヒで始まった。当時、ヨーロッパは第一次世界大戦の真っ只中で、多数の戦死者や深刻な食糧不足などにより、人々の生活は暗く重苦しいものだった。しかしスイスは中立を保っていたため戦争には巻き込まれず、その結果、諸国から多くの人たちがチューリヒに避難してきた。
亡命者の中には若い芸術家たちもいた。チューリヒで出会った彼らは、世界大戦や伝統的な道徳観を批判し、型破りなものや非合理的なものを重んじる「新しい芸術」を創作したいという情熱に満ちあふれていた。そして活動を始め、自分たちの運動をダダと名付けることにした(名称の由来は諸説ある)。
ダダイスト(ダダイズム参加者)の表現方法は“破壊的で否定的な”スタイルで、ブルジョア的で美しい芸術とはかけ離れていた。彼らは音響詩(言葉の意味よりも、音を楽しむ詩)、激しいディベート、合唱、ロシア民族楽器オーケストラの演奏、ダンスといったパフォーマンスを盛んに行った。また、コラージュ(フォトモンタージュ)や独特な絵画、彫刻も制作した(作品例はこちら)。この前衛的な芸術形式は、後に、幻想の世界を表現する【シュルレアリスム】へと発展した。
ダダイズムが誕生した建物「キャバレー・ヴォルテール」
チューリヒの旧市街にある石畳の通り、ニーダードルフは数多くのショップや飲食店が立ち並び、地元の人や観光客でいつも賑わっている。この通りを散策していると、ピーチ系の外壁の建物「キャバレー・ヴォルテール」が見えてくる。中に入ると、数年前に改装されたスタイリッシュなカフェ&バーが広がっている。
ダダイストの公演は、この建物の上階にあるホールで行われた。その頃は居酒屋が入居していた。1950年代にホールは大規模な改修が行われ、当時の建築は一部しか残っていないが、彼らはここで最初の約5か月間、金曜日を除いて毎日公演した。現在、上階にはダダイズムに関連した書籍や資料を所蔵する図書室もある。

一方、地下ホールでは、2027年1月初めまでダダイズム展『ダダ 言語の狭間で』が開催中だ(要入場料)。当時の公演では、同時進行詩(数人が異なる言語の詩を同時に読むため声が重なり合い、観客には意味が理解できない)、動物の鳴き声の模倣なども披露された。戦争下の不安定な生活の様子も詩へと昇華された。展示では、ダダイストのこうした実験的な言葉の表現を様々な資料を使って解説している。
ダダイストは奔放だった。公演はとても騒がしく、外まで音が響き渡り、近所から苦情が出た。奔放な振る舞いは舞台の上だけに留まらなかった。例えば、彼らは町のあちこちの居酒屋に突然現れ、「ダダ!」と叫んで客たちを驚かせ、瞬く間に姿を消したという。市内の有名な教会のステンドグラスも制作した、著名な画家・工芸家のアウグスト・ジャコメッティ(ダダイストではなかったが)もダダイストに好奇心をそそられ、この叫ぶアクションに参加していたらしい。さらに、ダダイズムに注目を集めるため、彼らはフェイクニュース(例えば、銃を使った事件が起きたなど)を流していた。
こうした挑発的な一面があったため、ダダイストはチューリヒの人たちの関心を引いてはいたが、必ずしも温かく迎えられたわけではなかった。
再現されたパフォーマンス
キャバレー・ヴォルテールでの公演の音声記録や映像記録は残っていない。幸い、それらは再現されており、実際の様子をうかがい知ることができる。中には、ダダイストたちが晩年に制作したものもある。
下記の映画(1967年、Greta Deses監督)はダダイズム50周年を記念して作られた。いま、この映画の中の公演の再現シーンを見ると、ファンキーでエネルギッシュなパフォーマンスと感じられる。しかし当時のチューリヒにおいて、それがどれほど型破りなものだったかは容易に想像できる。
映画で演じられている、段ボール製の衣装と縞模様の帽子を身に付け、司教の格好をして自身の音響詩を朗読している男性はドイツ出身の作家、Hugo Ballだ。Ballはダダイズムを主導した人物で、ダダの父と見なされている。チュ-リヒに移り住んだのは30歳の頃だった。

写真の音響詩『タツノオトシゴとトビウ』もBallの作品だ。「トレッスリ ベッスリ ネボーゲン ライラ・・・・・・」と声に出して読むと一見意味が通じるように感じられるが、実はドイツ語でも他の言語でもなく、無意味だ。Ballが作った様々な音響詩は多くの人が読んでオンラインで公開しているので、聞いてみるといいだろう。
ダダイズムに熱狂したBallだったが、やがてダダイズムが間違った方向に進んでいると感じ、運動から離れた。Ballは集中的な公演に疲れ果てたこともあり、スイスに同行し、ダダイズムを共に創始した妻のEmmy Henningsとスイス南部に移った。その後、41歳で病死した。

ダダイズムの女性アーティスト2人

©Noe Flum Zuerich / Zürich Tourismus
ダダイズムには、女性アーティストも積極的に参加した。2つの建物と共に、2人の女性を紹介しよう。全長1.4kmのバーンホフ通りは、高級ブランド店や時計・宝飾店が軒を連ねるチューリヒのランドマークだ。優雅な雰囲気の中、ショッピングを楽しんだり、ベンチに座って行き交う人たちを眺めることができる。(参考:兵役を逃れるためドイツから移住したChristian Schadはダダイズムの影響を受け、1916年に、バーンホフ通りを斬新に描いた Kunsthaus Zürich – Online Collection )

バーンホフ通り70番地の建物は、ダダイズムが誕生した頃、「グラン・カフェ・デ・バンク」として営業していた。このカフェは、作家や画家といった芸術家たちのお気に入りだった。先述のBall の妻Emmy Henningsは、ここでシャンソンを歌い、収入を得た。亡命当初、2人は非常に貧しく、食事もままならなかったという。Ballはピアノを弾いて稼いでいた。
Henningsはで売春、薬物中毒、投獄など、ドイツで困難な時期を経験した。しかし豊富な舞台経験を持ち、とにかく彼女の歌声は人々を魅了した。カフェの客は彼女に心を奪われ、キャバレー・ヴォルテールでの公演では歌や詩の朗読で観客を惹きつけ、スターとなった。ダダイズムの他の創設者は、彼女の歌声がなければ公演は継続できなかったと話していたそうだ。Henningsは詩や本を書いたり美術作品も作った。

ダダイストの多くは亡命者だったが、地元スイスからは、チューリヒのデザイン学校の講師だったSophie Taeuber-Arpが精力的にかかわった。
Taeuber-Arpは、バーンホフ通りから一歩入った場所にあった有名な「ダンススクール」で学び、ダダイズムの公演で踊った(当時彼女は20代後半だった)。スク-ルは写真の建物内にあった。ダダイズムに参加していることをデザイン学校に知られたくなかったため、彼女は常にマスクを着けて踊っていたそうだ。
Taeuber-Arpは、芸術家の夫Hans(Jean)Arpと共に、公演用の奇抜な衣装や操り人形も制作した。2人とも、ダダイズムの創設者でもある。彼女は就寝中にストーブによる事故により53歳で亡くなった。
バーゼル美術館でのTaeuber-Arpの回顧展(ロンドンとニューヨークに巡回した)は、バーチャル訪問することができる。
Sophie Taeuber-Arp – Virtueller Rundgang – Kunstmuseum Basel
パフォーマンスや展示が行われた他の場所
キャバレー・ヴォルテールは、財政難や近隣住民からの苦情などにより約5か月を経て閉鎖を余儀なくされたが、公演は1919年まで市内の随所で続いた。これらの会場はいまも残っている。

Right: ©Elisabeth Real / Zürich Tourismus
第1回目のソワレ(夜の公演)は、キャバレー・ヴォルテールの閉鎖後すぐに開催された。会場は、高評を得ている由緒あるレストラン「ツンフトハウス・ツア・ヴァーグ」だった(現在の建物は1636~37年に建てられたものだが、それ以前もここは酒場や集会所として栄えた)。ダダイストの公演に関心を持っていた政治家や知識人もやってきたという。
その夜、先述のBallは次のような宣言をした。「どうすれば永遠の至福を得られるのか? 『ダダ』と言え。どうすれば有名になれるのか? 『ダダ』と言え。気高い身振りときめ細やかな礼儀正しさで。気が狂うまで。意識を失うまで」

©Cemil Erkoc / Zürich Tourismus

Right: ©Elisabeth Real / Zürich Tourismus
最初のソワレから半年後には、アート作品の展覧会も行われた。会場はバーンホフ通りの中間地点に位置するパラーデ広場だった。ここに、元教師で美術コレクターのHan Corayが短期間ながら「アートギャラリー」を構えていた。Corayは、スイスで初めてアフリカの部族の工芸品を収集・展示した人物として知られる。彼はダダイストの支援者でもあり、ギャラリーで、アフリカンアートとダダイストのアートを並べて展示したのだった。
ギャラリーがあった場所には、現在、ルクセンブルゲリ(小ぶりのマカロン)で有名な老舗菓子店シュプルングリがある。併設のカフェもある人気スポットだ。
ダダイストはしばらくして、自分たちの作品を通じてダダイズムへの理解をもっと深めてもらおうとCorayからギャラリーを引き継ぎ、『ギャラリー・ダダ』をオープンさせた。このギャラリーはキャバレー・ヴォルテールに次ぐダダイズムの拠点となり、展覧会を数回行い、ソワレも5回開催した。だが契約上の問題や財政難により、わずか2か月後に閉鎖された。

ダダイストは拠点を失った後、1918年にツンフトハウス・ツア・ヴァーグ近くの別の老舗レストランで7回目のソワレを、また1919年4月には、「カウフロイテン」で8回目のソワレを開催した。カウフロイテンでのソワレは1000人もの人々が集まり、伝説的な一夜となった。とはいえ、頭部のない人形が登場するなど内容が度を越していたことで、結局、これが最後のソワレになった。市内最古のナイトクラブがあるカウフロイテンは、いまでもホットなスポットだ。コンサートを始め様々なイベントが行われ、食事も楽しめる。
3年間のダダイズムは、まさに旋風だった。ダダイズムはその後、ネットワークや広報活動を通じ、国外で発展を続けた。チュ-リヒ観光局によると、「ダダイズムの歴史に関する場所は見逃せないスポットだ」と実際に巡る国外観光客は絶えないという。この芸術運動は、これからも多くの人たちの感性を刺激し続けることだろう。
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*2016年はダダイズム誕生100周年にあたり、チュ-リヒだけでなく、日本を含む世界各地でイベントが開催された。
取材協力:
スイス政府観光局
チューリヒ観光局
The Official Zurich City Guide | zuerich.com
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Photos : Zürich Tourismus and Satomi Iwasawa
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岩澤里美
ライター、エッセイスト | スイス・チューリヒ(ドイツ語圏)在住。
イギリスの大学院で学び、2001年にチーズとアルプスの現在の地へ。
共同通信のチューリヒ通信員として活動したのち、フリーランスで執筆を始める。
ヨーロッパ各地での取材を続け、ファーストクラス機内誌、ビジネス系雑誌/サイト、旬のカルチャーをとらえたサイトなどで連載多数。
おうちごはん好きな家族のために料理にも励んでいる。
HP https://www.satomi-iwasawa.com/



