自然と人間を題材とした作品で国際的に知られるブラジル(フランス)のドキュメンタリー写真家で環境活動家のセバスチャン・サルガド氏(Sebastião Salgado)が、白血病のため81歳で死去した。家族が5月23日に発表した。地元メディアによると、サルガド氏は55年以上暮らしたパリで亡くなったという。
モノクロの詩人
サルガド氏の作風は、モノクロの重厚なトーンと感情を強く揺さぶる場面描写で知られ、彼の代表作の多くはアマゾンやアフリカなどの貧困地域で撮影されたものだ。近年は、詳しくは明かされていない健康上の問題を抱えていた。
「カメラのレンズを通じて、セバスチャンは常に、より公正で人間的、かつ環境に優しい世界のために闘い続けました」家族は声明でこう語った。さらに次のように説明している。
「彼は2010年、インドネシアで『ジェネシス』プロジェクトを撮影中に特殊なマラリアに感染しました。15年後、この病気が引き起こした合併症が重度の白血病へと進行し、命を奪いました」

イタリア・ミラノで開催された自身の展覧会『Amazonia(アマゾニア)』にて AP Photo / Luca Bruno, file
世界の矛盾を映す
彼の死は、サルガド氏と妻レリア・ワニック・サルガド氏が設立した環境団体インスティトゥート・テッラや、彼が会員を務めたフランス芸術アカデミーにより発表されたが、詳細や死去した場所は伏せられていた。
インスティトゥート・テッラの声明:
「セバスチャンは、単なる偉大な写真家ではありませんでした。彼のレンズは世界とその矛盾を映し出し、彼の人生そのものが、変革の力を体現していました」
『サルガド/アース・フォトグラファー』
フランス芸術アカデミー事務局長の作曲家ローラン・プティジラール氏は、サルガド氏を次のように称えた。
「彼は道徳的誠実さ、カリスマ性、そして芸術への献身において際立っていました。彼の作品群は写真芸術の金字塔です」
サルガド氏は、アマゾンの自然とそこに暮らす人々「アマゾニア」(2021)、鉱山や農園、製鉄所の肉体労働者の姿を撮影した「ワーカーズ」(1993)、マリのサヘル砂漠の飢餓のルポ「エクソダス(または『サヘル』)」(1986)などのシリーズで知られ、移民や労働者、難民など弱者に寄り添う視点を貫いた。

ドイツで開催された『Exodus(エクソダス)』展にて、子どもたちの肖像写真の前に座る来場者。AP Photo/Jens Meyer, file 2017年
彼の人生と仕事は、ヴィム・ヴェンダースと息子のジュリアノ・リベイロ・サルガドが共同監督したドキュメンタリー『セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター』(2014)で描かれ、2015年にはアカデミー賞にもノミネートされた。
サルガド氏は1969年、軍事政権下のブラジルを離れフランスへ移住。当時は左翼活動家だったと語っている。
1973年にパリで写真に専念し始め、経済学の学位を取得した後にモノクロスタイルを確立。1974年に報道写真エージェンシーSygmaでプロとしての活動を始め、翌年にはGammaで中南米の先住民や農民の生活を撮影。1980年には世界的写真エージェンシーMagnumに参加し、後に会長にもなった。1994年にMagnumを退社し、妻と共に自身の作品管理のためのAmazonas Imagesを設立した。
国家を越えた功績
ブラジルのルーラ大統領は、ブラジリアでの式典で黙祷を呼びかけ、こう述べた。
「サルガドは、世界でもっとも偉大な写真家の一人、いや最も偉大な存在だったかもしれません。彼の非妥協的な姿勢と、抑圧された人々の現実を捉えた写真は、全人類の良心を揺り動かすものでした」
フランスのマクロン大統領も、サルガド氏のアラスカでの作品写真をInstagramに投稿し、哀悼の意を表した。
家族、環境活動、そして人生
妻レリアとの間に二人の息子(ジュリアノ、ロドリゴ)をもうけ、家族でフランスに暮らした。彼の死は、第二の故郷であるフランスでも大きな衝撃を与えている。
作曲家フランソワ=ベルナール・マシュ氏は、こう語った。
「彼の視線は風景を変容させ、表層を超えて内なる真実に到達していました。彼とともに、写真はその本来の使命に最も近づいたのです」
パリ市長アンヌ・イダルゴ氏もコメントを発表。
「今夜、私は親しい友人を失い涙しています。慎み深く、誠実で繊細な稀有な人。彼の死は、私たちの心に大きな穴を残しました。パリは彼を愛しており、ふさわしい敬意を捧げることでしょう」
現在、フランス北部ドーヴィル市では約400点の作品展示が行われている。

フランス芸術アカデミーへ選出式典にて AP Photo / Francois Mori, File
「木を植える写真家」
サルガド夫妻は1990年代から、故郷ミナスジェライス州アイモレス近郊でアトランティック・フォレストの再生に取り組んできた。
1998年には私有地を自然保護区とし、同年環境教育と植林活動を目的とした「インスティトゥート・テッラ」を設立。これまでに300万本以上の樹木を植えた。
晩年のインタビューで、彼はこう語っていた。
「人生で何度カメラを置き、ひとり泣いたか。あまりにも劇的すぎた場面が何度もあった。それでもそこに”いる”ことが写真家の務めなのです。写真が残るのは、私たちがその場にいるから。写真家というのは、特権的な存在なのです」
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By MAURICIO SAVARESE Associated Press
SAO PAULO (AP)
