2022年2月下旬から「戦争」という非常事態が続いているウクライナの芸術作品が、ヨーロッパで静かに注目を浴びている。中でも人気なのが、20世紀初頭にウクライナで制作されたアートを一挙に紹介する「嵐の目の中で:ウクライナにおけるモダニズム、1900~1930年代」展だ。

同年11月、マドリードの国立ティッセン=ボルネミッサ美術館で開催されて以来、今年前半にはウィーンのベルヴェデーレ宮殿&美術館で開催されるなど、西ヨーロッパの国々を回っている。現在はロンドンの王立美術院、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで展示中だ。

1900年からの十数年間の一連の芸術作品は、ウクライナの伝統と西ヨーロッパのアートが混ざり合い、とても特色がある。

ウクライナの歴史は1100年以上前にあったキーウ公国(キエフ・ルーシ)の頃より複雑で、本展で取り上げた期間にも様々な荒波があった。1900年頃のオーストリア領(ウクライナ全体の2割)とロシア領(残りの8割)という状態から、第一次世界大戦を経て、1917年に中央政権が誕生し、翌年、ロシアからの独立宣言に至る。しかし、ロシアは独立を認めず、結局1922年にソ連が成立して、ウクライナはソ連の構成国になった。1920年代に尊重されていたウクライナの言葉や文化は、30年代のソ連の政策の転換により弾圧された。

本展は、そんな嵐や荒波の中にあっても進展したウクライナの芸術の軌跡だ。ウクライナに住んでウクライナにおけるモダニズム形成に影響を与えた非ウクライナ人芸術家たちも含め、展示品は約70点に及ぶ。その多くは、ウクライナ国立美術館(NAMU)とウクライナ演劇・音楽・映画博物館からの貸与だ。

カンバスに黒い正方形または白い四角形だけを描いた画がよく知られているカジミール・マレーヴィチ(1878年-1935年 キーウ生まれで、モスクワで芸術を学んだ)、色彩が見事で服飾デザインでも名を残したソニア・ドローネー(1885年‐1979年 ウクライナ生まれでパリで活躍)など国際的に有名なアーティストのほか、これまであまり知られていなかった芸術家たちの作品も見られる。

巡回展とはいえ、各美術館の雰囲気が異なり、作品のディスプレイの仕方も少し違うため、各会場ならではのトーンがあるのは魅力的だ。なお、イギリスのアート情報誌『アポロマガジン』は、2023年版の「今年の展示会」アワードに、マドリードで開催時の本展を選出した。

ウクライナから無事に運び出された作品群

 

長い間、西ヨーロッパのアート界ではウクライナのアートに対する興味は薄かった。本展が1箇所のみならず複数の場所で開かれて、多くの人たちの目にふれることになったのは、キーウで生まれ育ち、様々な国でアートの研究や仕事に従事してきたフリーランスのキュレーター、コンスタンティン・アキンシャ氏の尽力による(以下は氏へのインタビュー記事より)。

美術史家でジャーナリストでもあるアキンシャ氏は早く本展を開催しようと各地の美術館に声をかけていたが、ウクライナのアートはロシアのアートと一緒だととらえられて関心を示してもらえなかったり、政治的な理由で断られてばかりだったという。2022年にロシアとの戦争が始まり、氏は、ウクライナの作品が破壊されたり略奪されないよう、すぐに国外へ移動すべきだと考え、“展示のために”という名目で運び出す許可を取った。

軍の護送隊と国家保証を付けて早朝に送り出された作品は襲撃を逃れ、同日の夜、ポーランドとの国境手前に到着した。ちょうどその頃、ポーランドではロケット弾が爆発したため、国境が閉鎖されてしまったが、マドリード駐在のウクライナ大使が作品を積んだトラックの越境を許可するよう懸命にポーランドに働きかけた。こうして、作品の到着はマドリードでの展示開催に間に合った。アキンシャ氏は、輸送できたのは奇跡的だったと振り返っている。

本展はアキンシャ氏とカティヤ・デニソバ氏が、ウクライナ国立美術館のスタッフと共にキュレーターを務めた(各美術館のキュレーターも参加)。

モダニズムの時代の芸術の層が楽しめる

では、展示をカテゴリー別に見ていこう。

<キューボフューチャリズム>

最初は「キューボフューチャリズム」だ。1900年頃、ウクライナにはアートの高等教育機関がなかった(中等教育機関のアートスクールは1929年まで存在し、1917年に最初の芸術大学のウクライナ芸術アカデミーが設立された)。そのため、キュービズムや未来派が栄えていたミュンヘンやパリなどで学んだアーティストもいた。故郷に戻った彼らはほかのアーティストたちとそれらのアイデアを共有し、ウクライナでは新しい作風のための創作活動が勢いに乗った。

ダヴィド・ブルリュークの作品には馬がよく登場する。ブルリュークの父方の祖先はウクライナ・コサックの系統だったという。コサックは、ウクライナやロシアにいた武装集団(戦いがあった時に集まった武装集団で、馬を使っていた)で、ブルリュークにとって馬は大事な題材だった。

ウクライナ、ロシア、ミュンヘン、パリで学んだブルリュークは、ウクライナの芸術の発展に多大な貢献をした。ウクライナで作家、詩人、芸術家を集めた前衛的なアートグループ(のちに未来派と名乗った)を結成し、その初期の展示活動を企画運営したという。1908年にキーウで企画した「ズヴェノー(連帯 Link)展」は成功とはいかなかったものの、ウクライナ初の前衛的な展覧会だった。

ヴォロディミル・ブルリュークは、ダヴィド・ブルリュークの弟。兄と同じく、ミュンヘンやパリでも学び、点描画への関心をウクライナの民俗文化に融合させた「ウクライナの農民の女性」などを制作した。

アレクサンドラ・エクスターは、キーウで美術を学んだ後、パリに住んだ。パリでピカソやフェルナン・レジェとも知り合ったといい、キュービズムや未来派のアーティストたちと交流して刺激を受け、2つのスタイルを組み合わせて描くようになった。エクスターの作品は、そうした芸術トレンドとウクライナの民俗的要素を融合したものが多かった。彼女はしばしばキーウに帰り、これらの最新の芸術運動のことを紹介したという。

キーウで、後述するアレクサンダー・ボゴマゾフと一緒に企画した1914年の「コルツォ(指輪 Ring)展」は反響を呼んだ。ボゴマゾフの作品88点を初公開した本展は、ボゴマゾフがキューボフューチャリズムの重要なアーティストであることを知らしめた場となった。エクスターも先述のダヴィド・ブルリュークも本展で作品を展示した。

エクスターは教育にも力を注いだ。キーウで開放したプライベートのスタジオは有名で、前衛芸術を学びたい人たちがワークショップに集まったという。

<舞台美術>

エクスターは、舞台美術の分野でも活躍した。1917年に政権が誕生し、ロシアからの独立を宣言したウクライナでは、ロシアにより禁止されていたウクライナ語での演劇が行われるようになった。演劇を作る人たちの可能性は大きく広がり、エクスターはキュービズムや未来派の形態を衣装や舞台装置に応用した。

舞台美術のカテゴリーでは、キーウの劇場の舞台デザイナーを務めたヴァディム・メラー、エクスターに師事したアナトール・ペトリツキーなど別のアーティストによる作品も見られる。エクスターの作品と比べてみても面白いだろう。

<ユダヤ・イディッシュ文化の発展>

ウクライナで芸術家たちが西洋のスタイルを取り入れて活動していたこの時期、ウクライナに住むユダヤ人の伝統的な文化(芸術だけでなく、文学、演劇、音楽なども含める)とヨーロッパの前衛芸術を融合・発展させるため、キーウで「文化連盟」が設立された。

文化連盟はウクライナ各地に支部を置き、ユダヤ人の子どもの教育に力を注ぎ、成人向けのコースやサークルも提供して、ユダヤ・イディッシュ文化(イディッシュは中欧・東欧のユダヤ人が使う言語)の発展を促進した(連盟は1920年代半ばで閉鎖)。

本展では、チェリストや家族の姿を幾何学と陰影で少し抽象的に表現したマルコ・エプシュタインの作品、ユダヤ人の日常生活を幾何学的に描いたイサカール・ベル・ライバック作の「都市(シュテットル)」などが見られる。

<ソ連の中での自由な発想>

1922年にソ連が成立し、ソ連政府はウクライナに一定の文化的自治権を認めた。この頃、ウクライナに、ボイチュク派とよばれるモニュメンタルな作品を手掛けるアート集団(工房)が現れた。集団を率いたのは西ヨーロッパでアートを学んだミハイロ・ボイチュク。

ボイチュクは、アートは商品ではなく国の宝だということを示そうと、ビザンチン様式の図像、ルネサンス以前の芸術、ウクライナの民俗伝統を合わせた独特のスタイルを考え出した。ボイチュク派のアート制作は一般の人たちにアピールすることが目的で、政府委託による公共空間の壁画制作を多数引き受けた。

リンゴの木の下にいる女性2人を描いたティモフィ・ボイチュクは、ミハイロ・ボイチュクの弟。兄の元で働き始めてから、画家としての頭角を現したという。

1930年代にスターリンが権力を掌握すると、ボイチュク派は「ウクライナのブルジョア民族主義者だ」と非難された。ボイチュク派の公共作品は破壊され、ほとんど残っていない。

<ソ連の枠組みでアート教育を実践>

1920年代のウクライナの芸術は、ウクライナ芸術アカデミーを後継したキーウ芸術インスティテュートが推進した。インスティテュートとして再編されたのは、ソ連の世界観を伝えていくためで、ソ連全土から講師を雇ったという。ウクライナで育ち、ロシアで芸術家としてのキャリアを積んでいたマレーヴィチも短期間、ここで教鞭を取った。

マレーヴィチのシュプレマティズム(抽象的なスタイル)は、スターリンにはブルジョアの芸術の一種とみなされて受け入れられなかった。マレーヴィチは抽象表現を放棄し、より具象的な作品に戻した。

アレクサンドラ・エクスターと親しかった、先述のオレクサンドル・ボホマゾフも同校の講師となった。当初は持病のため教育と研究に集中し、アート制作のほうは休憩していたが、教鞭を取る間に意欲がわき、木こりたちの三連画(病状が悪化したため、3作目は未完成)に取り組んだ。1作目の「のこぎりを研ぐ」は、大きなのこぎりを用意している田舎の労働者を描いている。勤勉な労働者や労働生活を称え、それらをわかりやすく描くという、ソ連の社会主義リアリズム(ソ連の生活の理想像を描く)を意識しつつも、どことなく抽象的な雰囲気と大胆な色彩使いは、キューボフューチャリズムのスタイルに見える。

<ソ連化したウクライナのアート>

ソ連政権は、1930年代半ばまでに、社会主義リアリズムを唯一の公的な芸術スタイルだと決めてしまった。そのスタイルに変えなければ、芸術家たちは失業、投獄、処刑の危険にさらされた。これにより、ウクライナの自由な文化活動は終わりを迎えた。

このカテゴリーには、1934年から、長年、キーウ芸術インスティテュートで教鞭を取ったコスティアンティン・エレバが描いた軍人の写実的なポートレートが飾られている。

ウィーンのベルヴェデーレ宮殿&美術館では、拡大版を企画

本展は、鑑賞者たちに作品の理解をより深めてもらおうと、展示する各美術館が様々な工夫を凝らしている。ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツではキュレーターによるトークを開いたり、数人のアーティストについての詳しい説明をサイトに載せている。

4カ所目の会場となったウィーンのベルヴェデーレ宮殿&美術館では、それまでの3回とは異なり、より広いスペースが設けられた。ウクライナ発のほかの作品が加わり、展示品がほぼ2倍になったためだ。キュレーターたちは、ウクライナで地方の美術館を回り、追加展示する作品をキーウへ送り、キーウからウィーンに運んだという。

ベルヴェデーレ宮殿&美術館は7本(各数分)のビデオを制作し、公開している。展示の様子が様々な角度から映され、会場にいるような気分になれる。作品についての説明も興味深い。

多様性が以前より尊重される現在、ロシアとウクライナは同じではなく、ウクライナらしいアートとして披露されることの意味は大きい。数々の作品が戦争の危機を逃れて見られることも感慨深い。是非、下記の国立ティッセン=ボルネミッサ美術館の無料バーチャルツアーや、ベルヴェデーレ宮殿&美術館作のビデオを見て、日本でもあまり知られていない、エネルギーあふれるウクライナのアートに親しんでいただきたい。


In the Eye of the Storm: Modernism in Ukraine, 1900–1930s

ロンドンのRoyal Academy of Arts(RA)にて、2024年10月13日まで開催 

無料公開のバーチャルツアー

マドリードにある国立ティッセン=ボルネミッサ美術館のサイトより 


岩澤里美
ライター、エッセイスト | スイス・チューリヒ(ドイツ語圏)在住。
イギリスの大学院で学び、2001年にチーズとアルプスの現在の地へ。
共同通信のチューリヒ通信員として活動したのち、フリーランスで執筆を始める。
ヨーロッパ各地での取材を続け、ファーストクラス機内誌、ビジネス系雑誌/サイト、旬のカルチャーをとらえたサイトなどで連載多数。
おうちごはん好きな家族のために料理にも励んでいる。
HP https://www.satomi-iwasawa.com/