ハンブルク美術館(クンストハレ)に、パウル・クレーの「金色の魚」という作品が常設展示されている。この絵が好きで、1980年代から繰り返し会いに行った。深い青色の海と金色に輝く魚の色のコントラスト、無邪気さと繊細さを併せ持つ描線が、見る人の心を掴む。1901年から1902年にかけてイタリアを訪れたクレーは、ナポリで見た限りなく青い海と、楽しかった水族館訪問について日記に書き留めているが、その時の印象がこの作品を生み出したのだろうか。

Paul Klee『The Goldfish』1925

「金色の魚」が描かれたのは1925年、ワイマール共和国時代のまっただ中だ。第一次世界大戦後からナチスの台頭まで、14年間続いたワイマール共和国は、混乱期ではあったが、ベルリンを中心に「黄金時代」と呼ばれるほど、芸術文化が開花した時代でもあった。40代半ばのクレーは、バウハウスの教授を務めるほか、ミュンヘンでの2度目の個展を行い、パリやニューヨークでも作品が注目されはじめていた。

今日パウル・クレーは、20世紀前半において、最も重要なドイツ人画家の一人であると評される。バウハウスのほか、デア・ブラウエ・ライター(青い騎士)という影響力のある前衛芸術の運動にも関わり、自らもディー・ブラウエ・フィア(青い4人)を結成、抽象芸術の先駆者として活躍した。彼は、表現主義、構成主義、キュビズム、プリミティヴィスム、シュールレアリズムを自在に取り込みながら、独自の表現法を確立し、生涯に約1万点の作品を生み出した。

ハンブルク美術館 「金色の魚」

パウル・クレーが生きた時代

パウル・クレーは1879年、ベルンに近いミュンヘンブーフゼーで生まれた。ドイツ人の父はピアノ、オルガン、声楽、そしてバイオリンの教師、スイス人の母は声楽家だった。クレーが生まれてまもなく、一家はベルン市内へ引っ越し、彼は高等学校までをこの街で暮らした。7歳になるとバイオリンを習いはじめ、10代でベルン市立管弦楽団に入団、音楽だけでなく、絵画や文筆の才能も持ち合わせた青年だった。

音楽家となる選択肢もあったが、クレーは絵画の道に進むことを決意した。高等学校を卒業すると、ミュンヘンに引っ越し、私営の画塾で学び、のちにミュンヘン美術学校に入学した。ミュンヘンでは、のちに妻となるピアニスト、リリー・シュトゥンプフと出会った。1906年秋にリリーと結婚すると、生活の拠点をミュンヘンとした。翌年には息子フェリックスが生まれた。

クレーの日記を読むと、彼が常に自らのスタイルを模索し、たゆまなく作品を製作し、精力的に展覧会に出品し、出版社にも作品を持ち込んでいたこと、展覧会への出品を拒否されても、雑誌掲載を断られても、挫折することなく、前向きにチャンスをつかもうとしていたことがわかる。絵画制作のかたわら、演奏会やオペラに足繁く通い、自らも音楽活動を続けていたこと、ピアノ教師として働くリリーを支え、育児に情熱を傾けていたことも書き留めてある。

クレーの創作には、旅も大きな影響をもたらした。イタリア、チュニジア、エジプトなどの旅の描写は読んでいて楽しい。クレーの日記は、いくつもの世界を持っていた、好奇心旺盛な彼の、充実した日々の記録であり、行間からは彼の深い洞察力と精神の豊かさが感じられる。

1914年に第一次世界大戦が勃発し、クレーも徴兵された。しかし画家であったため、最前線に送られることはなかった。日記には自らの運命を淡々と受け入れ、軍隊生活の制約の中でも、希望を失わずに暮らした日々のこと、リリーへの愛情のこもった手紙、いかにして休暇を取り、リリーと会おうとしたかが克明に記されている。第一次世界大戦は、前線にいた友人のフランツ・マルクやアウグスト・マッケの命を奪い、クレーは悲しみに暮れた。戦争はミュンヘンに興った芸術活動の芽も潰してしまった。ドイツ帝国は崩壊し、ワイマール共和国が発足した。

1920年秋、クレーは設立まもない国立ワイマール・バウハウスに教授として招聘された。親しい同僚であるカンディンスキーとファイニンガー、友人のヤウレンスキーと共に「青の4人」結成したのは1924年、ワイマールでのことだった。1925年、バウハウスはデッサウに移転し、翌年には、初代校長のヴァルター・グロピウスが設計した、当時の最先端をゆくモダンな校舎が落成した。バウハウスはその後、1932年にベルリンに移転し、私立運営となった。

クレーは1931年にバウハウス・デッサウを去り、デュッセルドルフ美術学校の教授となっている。1933年にナチスが政権を掌握すると、芸術家たちに対しても迫害が始まり、バウハウスは解散した。「退廃芸術家」のレッテルを貼られたクレーは、教授職を解任され、134点もの作品が没収された。身の危険を感じた彼は、妻とともに生まれ故郷のベルンに亡命した。

その後、難病に侵されたクレーは、1940年、闘病のうちに亡くなった。彼の製作意欲は死の直前まで衰えることなく、病と戦った晩年に、とりわけ多くの作品を制作している。

クレーの泉

クレーの足跡を訪ねてベルンへ

昨夏、ふとクレーの足跡を辿ってみたくなり、ベルンを訪れた。ベルンは歩くのが楽しい街だ。タイムスリップしそうな街並みは、立体的でリズム感にあふれている。訪れた日は、木々の緑とアーレ川のターコイズブルーのコントラストが美しく、心が癒された。

ベルンの街並み

最初に、ベルンの市立美術館に立ち寄った。ベルン美術館は1910年にパウル・クレーの個展を初めて開催した美術館だ。クレーの生前に、計8回もの個展を開催している。なかでも、1935年の展覧会は、彼の製作の全貌を伝える大掛かりなものだった。クレーの死後間もなく、遺作展を開催したのもこの美術館である。クレーを支え、育てた美術館に、今もこうして訪れることができる幸福を感じる。美術館を出ると、クレーの横顔が刻まれた泉の前を通り、彼が何度も歩いたはずの旧市街を散策した。

ベルンの高台には、3つの小高い丘を模したユニークな造形のパウル・クレー・センターがある。イタリアの建築家、レンゾ・ピアノの設計で、2005年にオープンした。ここには、世界最大のクレー・コレクション、約4000点が所蔵されており、さまざまな角度からクレーの芸術に迫る企画展が行われている。センターでは、絵画展のほかに、音楽会など、様々なイヴェントも行われている。

「光り輝く秘密。子供たちがキューレーションするクレー展」

訪れた時はちょうど「光り輝く秘密。子供たちがキューレーションするクレー展」と題された展覧会が開かれていた。クレーは、子供が見つめる世界に魅了された画家であり、息子フェリックスの誕生は、彼の創作の源泉のひとつだったと言われる。そこで、パウル・クレー・センターは、同館内のキンダーミュージアム・クレアヴィヴァの協力を得て、子供たちにキューレーターの仕事に参加する機会を提供したのだった。

同センターのキューレーター、マーティン・ヴァルトマイヤー氏と、8歳から12歳の子供たち13人のグループは、7ヶ月にわたり定期的にミーティングを重ねた。どのような作品を展示するのか、どのように展示するのか、そこでどのようなストーリーを語るのか、ヴァルトマイヤー氏はキューレーションの全過程において、子供たちに素材や情報を提供し、彼らの意見を取り入れながら構成していったという。この展覧会がとても興味深く、知らなかったクレーの一面に触れる機会となった。

子供たちの企画展

展覧会へと誘うのは、1940年、クレーが亡くなる3ヶ月前に描いた「ガラスのファサード」という作品だ。モザイクやパッチワーク、あるいはステンドグラスのようであり、バウハウス建築のガラス窓のファサードも連想させる。夕暮れ時のような落ち着いた色の数々が組み合わさったこの作品には、視線になじむ心地よさと程よい翳りがあり、眺めているととても穏やかな気持ちになる。クレー芸術の集大成とも言われる作品だ。

この作品に秘密が隠されていた。それが1990年に発見された裏側の絵である。裏面にはサーモンピンクの絵の具が塗られていたのだが、半世紀という時を経て、それが徐々に剥がれ、下に描かれていた絵が見えるようになったのである。現れたのは、逆さまの少女と音楽記号のフェルマータ、天使、あるいは猫のようなフォルム、そして天体を連想させる円だった。裏面の絵にはタイトルも残されていた。「少女は死に、また現れる(Mädchen stirbt und wird)」。研究者たちは、絵の具の知識が豊富だったクレーは、裏側の絵の具が、表よりも先に剥離し、少女が現れることを意図していたのではないかと指摘している。

ヴァルトマイヤー氏は子供たちに、クレーが1939年に「少女は死に、また現れる」と酷似する「事故(Unfall)」(個人蔵)と題する作品を描いていること、「少女は死に、また現れる」のモデルだと考えられる、2人の女性について語る。1人は、18歳の時に病死したマノン・グロピウス。ヴァルター・グロピウスとアルマ・マーラーとの間に生まれた娘だ。もう1人は、29歳の時に海で溺死したカルラ・グロッシュ。彼女はバウハウスの体操教師だった。

長い間、この少女のモデルはマノン・グロピウスだと思われてきたが、ヴァルトマイヤー氏はあらためて子供たちに問いかける。「この少女はマノンだろうか、それともカルラだろうか」。

カルラはドレスデンのパルッカ・ダンス学校(現パルッカ・ダンス大学)でダンスを学び、1928年にバウハウス・デッサウの体操教師となった。彼女は一時、クレーの息子、フェリックスの恋人でもあった。フェリックスとの関係が終わってからも、カルラはクレー夫妻と親しくつきあっていた。両親を早くに亡くしたカルラにとって、クレー夫妻は親のような存在であり、クレー夫妻も彼女を娘のように想い、養女として迎えることを考えていたほどだった。

子供たちの企画展 カーラの写真

バウハウスは、第一次世界大戦後の困難から立ち上がり、芸術を通じて人間性を獲得するという教育理念を掲げ、絵画や建築に加えて、演劇やダンスにも力が入れられた。演劇においては、オスカー・シュレンマーが主宰する「舞台ラボ」で前衛的な試みが行われていた。カルラはシュレンマーの元で、振り付けに才能を発揮するほか、舞踏家として活躍し、ドイツ各地で公演を行った。カルラが指導するスポーツの授業、カルラの自由で溌剌としたダンスは、バウハウスの理念を象徴する輝きを放っていた。

やがてカルラは、バウハウスの卒業生であるオーストリアの建築家フランツ・アイヒンガーと恋に落ち、まもなく婚約した。クレー夫妻とカルラたちとの親しい関係はその後も続いていた。1933年にバウハウス・ベルリンが閉鎖されると、カルラたちはパレスチナへの亡命を決めた。この時、カルラのお腹には赤ちゃんが宿っていた。出発前、カルラは愛猫であるターキッシュ・アンゴラのビンボをクレー夫妻に託した。

クレー夫妻は、カルラから船で無事テルアビブに辿り着いたとの便りを受け取ったが、その後まもなく、カルラが亡くなったというニュースが舞い込んだ。1933年5月、彼女はテルアビブのビーチで泳いでいた時に、溺死したのだった。クレーが「事故」を描いたのは、カルラの死後6年がたってからである。もしこの少女がカルラであるなら、彼女の死という悲しみを乗り越えるためには、それだけの月日が必要だったのだろうと想像する。

カルラの生涯を知った子供たちは「事故」と「少女は死に、また現れる」に描かれた逆さの少女は、海に飛び込み、溺れたカルラではないかと推測する。お腹の部分に描かれた3つの黒い円は、妊娠していたカルラの赤ちゃんを象徴するのではないかと指摘した子供もいた。

カルラの訃報から2年が経った頃、クレーは治癒することのない病に見舞われる。 皮膚硬化症という難病で、体中を痛みが襲い、徐々に体を動かすことが困難になった。しかし彼は、病に立ち向かい、精力的に描き続けた。その間、カルラの猫、ビンボは、いつもクレーのそばにいた。彼は、娘のようなカルラのことを、度々思い出していたはずだ。子供たちによる展覧会は、クレーが愛した猫の写真で締めくくられていた。

クレーのお墓

クレーのお墓はパウル・クレー・センターにほど近いショスハルデン墓地にある。ベルンを去る前に、緑深い高台の墓地を訪れた。たくさんの死者たちに囲まれていると、「少女は死に、また現れる」の少女は、マノンであり、カルラであり、若くして亡くなった、そのほかの少女たちなのではないか、との思いが頭をよぎった。そして、その横に描かれていたのは、天使でもあり、真っ白な猫のビンボでもあるように思えた。

クレーのお墓

クレー夫妻が眠るお墓には、以下のような文章が刻まれている。

「こちら側では、私はまったく理解不可能だ。というのも、私は死者たち、まだ生まれていない者たちの傍に住んでいるようなものだから。ふつうよりは創造の核心には近く、それでいてまだ十分には近づけていない」

死後もなお、クレーは、あの世で探究の旅を続けているのだろう。


「光り輝く秘密。子供たちがキューレーションするクレー展」

ドキュメンタリー映像のリンク


Photos by Junko Iwamoto

岩本 順子

ライター・翻訳者。ドイツ・ハンブルク在住。
神戸のタウン誌編集部を経て、1984年にドイツへ移住。ハンブルク大学修士課程中退。1990年代は日本のコミック雑誌編集部のドイツ支局を運営し、漫画の編集と翻訳に携わる。その後、ドイツのワイナリーで働き、ワインの国際資格WSETディプロマを取得。執筆、翻訳のかたわら、ワイン講座も開講。著書に『ドイツワイン・偉大なる造り手たちの肖像』(新宿書房)など。
HP: www.junkoiwamoto.com