8月初めより、スイスの有名な温泉地バード・ラガッツで、興味深い展覧会が開催中だ。村の中心部から温泉の源泉の方向へ約1時間歩くと、温泉の歴史を伝える博物館「アルテス・バート・プフェファース (Altes Bad Pfäfers)」が現れる。ここは、かつて療養所だった。白い壁、木の床、アーチ窓が特徴的な博物館は、静かで落ち着いた味わいを醸し出し、館内にいるだけで安らぐ。周囲の自然とも、とても調和している。

館内のワンフロアに広がっているのが、2人のスイス人アーティスト、イボン・ジェナル(Yvonne Gienal)さんとルイス・コライ(Luis Coray)さんによる「マルグリアータ、クンケルス峠の豊穣の女神」展だ。2人は仲のいいアーティスト同士で、数年来、一緒に展覧会を開いたりアートの企画を考案している。

Yvonne GienalさんとLuis Corayさん

今回の展覧会はアートプロジェクト「苔とマルグリアータ(Mescal e Margriata)」の2回目だ(今回、新作が加わった)。初回は2021年秋、2人が住む地域の2200メートル級の山クラップ・ソン・ジョンの登山鉄道駅周辺を舞台に、オープンエアー展として開催した。2人の作風の違いは明らかだが、それでいて絵画もプリントもオブジェも相性がいい。アーティスト同士が互いに尊重し合い、共鳴しているからだろう。また、展示のテーマである「自然」「ジェンダー」に共通の思いを募らせていることも統一感を生むのだろう。テーマは「聖マルグリアータの歌」という曲から、2人が導き出した。

「聖マルグリアータの歌」の内容とは

「聖マルグリアータの歌」は、2人が住む州グラウビュンデンで使われているレトロマンシュ語(スイスの公用語の1つ)の歌だ。中世から歌い継がれ、レトロマンシュ語の歌の中で最も古い部類に入るという。スイス南東部に位置するグラウビュンデンはスイス最大の州で、大自然に恵まれている。伝説上の人物とも言われるマルグリアータはスイスだけでなくヨーロッパで、豊年満作、また妊婦・出産の聖人として敬われた。グラウビュンデンでは、特に都市から離れた場所にマルグリアータを祭った礼拝堂や教会が多数建てられた。

「聖マルグリアータの歌」は他のヨーロッパ諸国に類似のものはなく、文化遺産とみなされている。今、日常で歌われることはないが、農家の女性たちは19世紀半ばまで、畑仕事をしながらこの歌を口ずさんでいたという。

歌の中の主人公は、アルプ(山岳の草地)で働いていた聖マルグリアータだ。マルグリアータは7回の夏を、そこで過ごした。アルプでの農作業(牛やヤギを放ち、チーズやバターを作る)は男性の仕事だった。マルグリアータは常に男装し、女性であることを隠していた。ある時、羊・牛飼いの少年が、マルグリアータが若い女性だと知ってしまう。少年は正義感から、チーズ職人にその秘密を明かそうとする。マルグリアータは少年に口外しないでもらおうと、魔法をかけた5つの贈り物を差し出した。

贈り物は、花粉が付けば付くほど白くなるシャツ3枚、1年に3回毛を刈ることができる羊3頭、多量のミルクを1日3回搾れる牛3頭、1年に3回草狩りができる草むら3つ、昼間はライ麦を、夜は小麦を継続的に粉にする粉ひき機1台と、豪華なものだった。

しかし、少年はすべての贈り物を拒んだ。少年の固い意思を変えることができないと知ったマルグリアータは怒り狂い、クンケルス峠をつたってアルプから下り、山と永遠に別れた。彼女が去ったあと、泉は枯れ、牛やヤギのミルクは出なくなり、草原は枯れてしまったという。

「考えるアート」で、自然とのつながりや男女の相互理解を学ぶ

 
初回のクラップ・ソン・ジョン山での展示では、聖マルグリアータがアルプで過ごしたことをリアルに想像できた。その時の様子と合わせて、2人の作品をいくつか紹介しよう。

「露天風呂(Bogn aviert)」

コンクリートの浴槽 2つに、牛乳を混ぜた白い水が張られている。そこに浮かぶのは、発泡スチロールで作った女性の乳房だ。昔から山岳地域の農家の女性たちは牛乳風呂に入り、健康維持に役立てていたことを示していると解釈できる。ひょっとしたらマルグリアータも、アルプで密かに牛乳風呂を楽しんでいたかもしれないと想像させる。

©Mathias Kunfermann

また、白い水は母乳も表し、多産な女性、人間の繁殖力を象徴している。人物の姿を描かずにイメージだけで表現する手法が面白い。

このオブジェは、自然の偉大さも表現している。中世以降の文献には「授乳中の女性は大自然の擬人化」という記述が時々出てくるという。母乳で(栄養を与えて)人間を育てるという女性の生物学的機能の素晴らしさは、衣食住のすべての面において、私たちにたくさんの利益をもたしてくれる大自然と通じるのだ。

一方、博物館では、発泡スチロールの乳房は、アルプスでのチーズ作りで使われる小さい釜に浮かんでいる。

乳房の新作「Freya pfffffffff」は、イボンが今年制作した。布を使った直径80センチメートルの乳房は、豊穣と同時に愛情も表現している。窓からの日差しや葉の緑という自然のエッセンスが加わり、とても美しい。手前に飾られた、紺の男性用ジャケットと白いワンピース「Tschop e Rock」はルイスとイボンとの作品。男装していたマルグリアータを、農作業用の服ではなく、モダンなファッションを使って象徴している。

「アイスランド苔(Jarva Sontga Margriata)」

アイスランド苔は主にアイスランドに生育していてることから、その名前がついた。中央ヨーロッパやアメリカの山岳地帯にも生息しており、スイスの標高が高い場所でも繁殖している。現在は喉の痛みに効果がある薬としてよく使われるほか、お茶にして飲んだり、アルコール飲料にも使われている。

©Mathias Kunfermann

夏、スイスのアルプスで過ごす牛、ヤギ、豚はこの苔を好んで食べる。「アイスランド苔のおかげで家畜は繁殖し、豚は太り、牛は乳をたくさん出す」という130年以上前の民俗学者の言葉からもわかるように、この苔は、スイスの農家にとっても昔から大切なものだった。イボンとルイスの2人は、このアイスランド苔にも焦点を当てた。2人の作品からは、自然の恩恵への感謝が伝わってくるようだ。

アイスランド苔について知った鑑賞者は、山(標高が高い場所)での生活を思い描くだろう。山の世界は、平野部に住む多くの人にとっては非日常の空間だ。苔の作品は、日常と非日常をつなぐ経験も味わわせてくれる。

「蛇行(Meander)」

苔の絵と同様に、自然の生命力にフォーカスした「蛇行」という作品も印象的だ。初回の展示で、山肌をカンバスにして描いた作品だ。400メートルの生地を規則的に曲げ、251個のフックで止めた(今回の展示では、その生地が束ねて置いてあった)。なぜ幾何学模様なのかと思ったら、これは、ギリシャでよく使われているメアンドロス模様とのこと。メアンドロス模様は、蛇行しているマイアンドロス川を模したデザインで、ギリシャ人にとってこの模様は永遠の水の流れ、自然の生命、豊饒を意味している。イボンとルイスの2人は、山の水資源の大切さを強調したかったのだという。

筆者には、このメアンドロス模様は、聖マルグリアータがアルプから下りた時のクンケルス峠、つまり、曲がりくねった峠の道のようにも思えた。

展示のパンフレットに、クンケルスの語源の説明があるのも興味深い。レトロマンシュ語で貝殻を意味する言葉の発音が少し変化したものだという。昔からヨーロッパでは、貝殻といえば真珠を生み出すものというイメージが広まっていた(貝殻の女神は、聖マルグリアータと同一視されていたようだ)。レトロマンシュ語を話す人々は、峠も人間に産物をもたらしてくれるからと、名前がなかった峠に“貝殻”と名付けたのだ。

「隠された個性 (Identitads zuppadas)」

昔、アルプスでの仕事は男性の世界であり、そのため聖マルグリアータは男装をしなくてはならなかった。これも歌の重要なポイントになっている。昨今、社会の中で作られた男らしさや女らしさを疑問視するムーブメントが世界で起きている。イボンもルイスも、思考を変えて男女のかかわり方を作り変えていき、誰にとっても生きやすい社会を目指していくべきだということに賛同している。

2人は、鑑賞者にジェンダーについても考えてほしいと、関連する写真を集めて展示している。スイスのアルプスでいつも女装(スカート姿)して仕事をしていた男性(1910年に撮影)、出産中に妻と子どもが亡くなり、悲しみのあまり女装するようになったスイス人男性(享年1958年)、女性禁制の1967年のボストンマラソンに男性として登録・参加し、レース中に妨害を受けたアメリカの女性マラソン選手キャサリン・スウィッツァー(現在76歳)など、強いインパクトを与える写真が並ぶ。

耳で認識する音楽(歌)の世界を、現代アートによって目に見える形にするというイボンとルイスの2人のアプローチは、とても新鮮だ。大自然の美しさや風情、神秘性を描いた芸術作品は多数あるが、2人の作品はシンプルでありながら、背景にある深い意味を探索する「考えるアート」の好例といえる。

なお本展はビデオ作品もあり、歌や楽器の演奏も行われ、自然、人間、共同生活、環境問題といったテーマに多様な表現方法で迫っていて、「アートの楽しさ」を何倍にも膨らませているように感じた。

「Margriata, die Fruchtbarkeitsgöttin vom Kunkelspass」

場所:温泉地バート・ラガッツの渓谷にある博物館とレストラン「アルテス・バート・プフェファース Altes Bad Pfäfers」(冬季は閉館)
期間:2023年8月5日~10月22日
行き方:村中心部から博物館まで、バスで約10分、徒歩で約1時間

本展は、第1回目の展覧会「Mescal e Margriata」の続編。「Mescal e Margriata」はグラウビュンデン州のプロフェッショナルなアート企画のコンペで優勝し、助成金を得た。

Yvonne Gienal

Luis Coray


Photos by Satomi Iwasawa(一部提供)

岩澤里美
ライター、エッセイスト | スイス・チューリヒ(ドイツ語圏)在住。
イギリスの大学院で学び、2001年にチーズとアルプスの現在の地へ。
共同通信のチューリヒ通信員として活動したのち、フリーランスで執筆を始める。
ヨーロッパ各地での取材を続け、ファーストクラス機内誌、ビジネス系雑誌/サイト、旬のカルチャーをとらえたサイトなどで連載多数。
おうちごはん好きな家族のために料理にも励んでいる。
HP https://www.satomi-iwasawa.com/