5月まで、ミラノのトリエンナーレデザイン美術館に、約30点の珍しい大型絵画が展示された。白い色が随所に織り込まれ、明快な色の1つ1つがキャンバスの上を滑らかに移動するように、また時には堰き止められたかのように描かれていた。どの抽象画も、まばゆい。作者はオーストラリア先住民族(アボリジナル)のサリー・ガボリ(Mirdidingkingathi Juwarnda Sally Gabori 1924-2015年)だ。

トリエンナーレデザイン美術館 
© Agnese Bedini, Piercarlo Quecchia, DSL Studio

80歳を過ぎて、初めて絵筆を握ったサリー

オーストラリア北部のカーペンタリア湾に浮かぶ島々のなかで、最も大きいモーニントン島。この島の高齢者施設に住むサリー・ガボリは、2005年、80歳を過ぎた時に初めて絵を描いた。施設からほど近いアート工芸センターで、男性向けの絵画ワークショップに作業療法の一環として参加したのだが、その日を境に、彼女はアートの飛び抜けた才能を周囲に知らしめることになった。当初は小さいキャンバスで、やがて巨大なキャンバスへと移行し、9年間に残した絵は2千枚を超える。

サリーは絵を通して、自分が生まれた場所と、そこに住んでいた自分が属する民族(カイアディルト族)を称えている。陸、海、空をベースに、塩田、川、河口、淡水源、岩、漁獲網、マングローブなどを描写した作品を1枚ずつ眺めたり、立ち位置を変えて数枚を一緒に眺めていたら、訪れたことのない島の情景が目に浮かんできた。

彼女の絵は実に巧みで、80年間、絵を描いたことがなかったというのが信じられない。同化政策によって長年住んでいた土地を奪われた彼女や彼女の家族の物語が、晩年になって視覚的に爆発し、強い創作意欲につながったと言われている。

異色を放つアボリジナル・アート

アボリジナル・アートの歴史は非常に長く、洞窟の壁画や砂絵、儀式用品に施されたデザインにまでさかのぼることができる。1970年代以降、先住民たちは、絵具とキャンバスを使って描くことも含め、アボリジナル・アートの価値を高める活動を組織的に進めた。これが功を奏し、1980年代には国内の美術館が続々と作品を購入・展示した。さらに個人のコレクターたちはもとよりアメリカの主要美術館も作品を購入し、アボリジナル・アートは現代アートとしての地位を確立した(アボリジナル・アートの価値の変化は、こちらを参照)。ただし、1980年代後半までは、アボリジナル・アートは男性だけが制作できるという考え方が根強く、絵具とキャンバスは女性には提供されていなかったという。

アボリジナル・アートというと、点描画やシンボルを描いた作品が真っ先に思い浮かぶだろう。サリーの絵は、そういった主流とは違うユニークな点に注目が集まっている。絵を描き始めてから半年後には、ブリスベンのアートギャラリーが初の個展を開催し、現在サリー・ガボリのスペシャリストであるアートの専門家ブルース・ジョンソン・マクレーンもその個展を訪れて衝撃を受けた。そして翌2006年には、クイーンズランド州立美術館で作品が披露された。

ジョンソン・マクレーンは「カイアディルト族には、アートやデザインを作る伝統はなかった。サリー・ガボリの絵は、多くのアボリジナル・アートが扱うテーマや文化的概念を伝えると同時に、愛、喪失、憧れ、そして自分自身の特別な居場所を持ち続けるという、彼女自身の心から生み出された普遍的な見方を表現していて、他の作品とは一線を画している」と語っている。

また、オーストラリア先住民族のアートのキュレーター、ユディット・ライアンは、サリーの作品について「彼女のキャンバスに放たれた大胆な空間、途切れた色彩、勢いのある垂直性は、アボリジナル・アートとはこうあるべきで、こういう意味を持っているという白人の先入観を打ち砕く。私たちは彼女の作品を決まり切った視点で見たり、他のアボリジナル・アートとは比較したりせずに、新鮮な目で見るべきだ」と述べている(本展のカタログより)。

サリーの影響力は大きく、カイアディルト族の女性たちは刺激を受けて絵を描き出した。

故郷のベンティンク島に対する愛情が、絵画に

サリーはモーニントン島で創作活動をしていたが、そこは彼女が生まれ育った場所ではない。カイアディルト族の故郷は、モーニントン島の南に位置するベンティンク島だ。カイアディルト族は魚を釣り果物を収穫し、沼地を掘って水を得て生活していた。穏やかな暮らしが激変したのは、宣教師たちがキリスト伝道のために入り込んできてからだ。

宣教師たちは、1944年の時点で125人しかいなかったカイアディルト族をモーニントン島の伝道所に移住させ始めた。抵抗した人たちもいたが、ひどい自然災害のためにベンティンク島を離れざるを得なくなり、サリーや家族を含めて残っていた全員が伝道所に避難することになった。伝道所では文明化の名の元に、子どもたちに寮生活を強い、母語を話すことも禁じた(子どもたちに英語を教えた)。大人たちは簡易シェルターに住み、漁業や狩猟は許されたものの、誰もが、ここは自分たちの土地ではないという精神的な苦痛を抱えたという。サリーも、この混乱と失望の中で最初の子ども3人を失った。

カイアディルト族はこの避難生活を一時的なものだと思っていたが、結局、カイアディルト族に故郷のベンティンク島の土地所有権が公式に認められたのは1990年代になってからだった。これを機に、サリーは夫のパットや同郷人たちと共にベンティンク島に戻って暮らした。しかし、十分な医療サービスがなく資金援助も少ない状況で、約10年後には再び全員がモーニントン島に住むことになった。

サリーは、自分には、子どもたちにベンティンク島のことを伝える責任があると強く感じていたという。彼女が何度も描いたベンティンク島の各地は「ディビルディビ」「トゥンディ」「ニーニルキ」「マカルキ」「スウィアーズ島」「パットとサリーの国」。本展では、これらのシリーズがオーディオルームを挟んだ2つの大きい展示ホールに並んでいた。

サリーは「ディビルディビ」シリーズを最もたくさん描いた。この場所には、カイアディルト族の歴史と民族への思慕が込められている。ディビルディビは島の創造にまつわる物語に登場する魚でもあり、物語ではこの魚が湾に浮かぶ島々を作ったとされる。魚は最後には捕らえられて食べられてしまい、捨てられた肝臓が淡水の水源になったと伝えらえている。夫のパットはこの物語と場所を受け継ぐ者として、ディビルディビの名も授かっている。

「トゥンディ」は島の北部。ここはサリーの父の生誕地であり、このシリーズでは、風景、そして湾の影響で劇的に変化する天候を描いて島の自然美を表現している。サリーは絵具が乾き切らないうちに重ねて描いていくことで、色彩、色調、透明感を変化させた。

「ニーニルキ」は島の南東岸だ。睡蓮が咲き乱れる淡水のラグーンがあり、湿度が高い。このシリーズの太い黒い線は、カイアディルト族が沿岸に築いた魚用の罠を表しているという。ニーニルキには、サリーや家族が長年に渡る強制的な移住から戻って住んだアウトステーションと呼ばれる簡易住居があった。ニーニルキを描くことは、カイアディルト族の苦難を伝える意味もある。

©Andrea Rossetti

「マカルキ」「スウィアーズ島」の2作は、カイアディルト族の女性アーティストたちとの共同制作だ。彼女たちはカイアディルト語の最後の話者で、祖先の土地への深い愛着を絵で示した。マカルキは重要な狩猟地で、サリーの兄が深く関わった土地でもある。彼はカイアディルト族の指導者の1人でアルフレッド王とも呼ばれた。スウィアーズ島はベンティンク島の隣にある島。「パットとサリーの国」はサリーが娘たちと一緒に描いた作品だ。

カイアディルトの人たちは、いつかベンティンク島にサリーの記念館を作りたいそうだ。それが実現すれば、記憶と想像、愛情と使命感の結晶といえる彼女の作品は、島の生命力からエネルギーを得て、一層輝くに違いない。 


Triennale Milano

EXHIBITION Mirdidingkingathi Juwarnda Sally Gabori
 

Fondation Cartier pour l’art contemporain
EXHIBITION Mirdidingkingathi Juwarnda Sally Gabori 特別サイト 

「サリー・ガボリ展」は、2022年、パリのカルティエ財団現代美術館でも開催された。
カルティエ財団とトリエンナーレデザイン美術館はパートナーシップを結んでいる。


Photos by Satomi Iwasawa(一部提供)

岩澤里美
ライター、エッセイスト | スイス・チューリヒ(ドイツ語圏)在住。
イギリスの大学院で学び、2001年にチーズとアルプスの現在の地へ。
共同通信のチューリヒ通信員として活動したのち、フリーランスで執筆を始める。
ヨーロッパ各地での取材を続け、ファーストクラス機内誌、ビジネス系雑誌/サイト、旬のカルチャーをとらえたサイトなどで連載多数。
おうちごはん好きな家族のために料理にも励んでいる。
HP https://www.satomi-iwasawa.com/