ロンドンのテムズ川沿いにある国立近現代美術館テート・ブリテンは、おすすめ美術館の1つ。見応えあるアートが展示され、いつ訪れても地元の人や観光客でにぎわっている。5月中旬まで、国際的な女性アーティストのマグダレーナ・アバカノヴィッチ(Magdalena Abakanowicz 2017年没、享年86歳)の個展「Magdalena Abakanowicz: Every Tangle of Thread and Rope」が開催中だ。

若い世代には、おそらくアバカノヴィッチは馴染みがないだろう。日本では1991年に全国4か所を巡回した初のアバカノヴィッチ展(本人が展示の構成もインスタレーションもした)が開かれた。イギリスでは数回個展はあったが、彼女の知名度を非常に高め、アート界での地位を確固たるものにした布の巨大彫刻「アバカン」シリーズを一挙に公開するのは、今回が初めて。筆者も「アバカン」シリーズを見たことがなかったので、本物を見ようと同展を訪れてみた。

戦争経験がトラウマに

アバカノヴィッチは、シンプルながら、強い生命力を放つような彫刻作品を作り続けた。思春期に祖国ポーランドで経験した第二次世界大戦(ドイツ兵が家に侵入し、母親に大怪我を負わせた。戦争終了時は15歳)、そして戦後の共産主義体制下での自由が利かない生活が彼女の作品に影響を与えており、暴力や戦争に向かう人間の思考、喪失や悲哀といった感情が作品に見え隠れする。

また、自然も作品全般に貫かれているテーマだ。アバカノヴィッチは裕福な家庭に生まれ、森の中の邸宅に住んでいた。両親の領地だった森でよく1人で遊び、不思議なパワーや人間とはかけ離れた存在を感じていた。自然界と人間との結びつきを、幼い頃に森から学んだのだという。

今回のアバカノヴィッチ展は、彼女のキャリアの前半にスポットを当てている。展示スペースは、1と2の部屋が初期の作品群、3~6が主に「アバカン」シリーズ、最後は壁に描いた彼女のバイオグラフィーだ。布の巨大彫刻「アバカン」シリーズは偉業とされる。インテリア用品として壁に飾るものだったタペストリーを、彫刻へと進化させたからだ。それは、織物の分野では新しい挑戦だった。彫刻の分野においても、布を材料にするという新しい方法の発見だった。

なお、「アバカン」シリーズ後のキャリアの後半では、頭部がない人間や背中を強調した人間の彫刻を作ったり、木の幹で大型の彫刻を手掛けたり、ブロンズやコンクリート、石灰石や鉄を使った彫刻群(基本の形状は同じで細部が異なる彫刻を連ねた)を制作し、自然の中や歴史的な場所で展示した。

著名になる前の制作期~平面の世界

   

1と2の部屋は、初期の作品群だ。アバカノヴィッチは造形美術、絵画、織物を学び、20代半ばで結婚した。そして工業デザインの分野で働きながら、自分の創作に励んだ。既存のデザイン画を使わない大型タペストリーや、紙とインクと不透明水彩絵具を使ったコラージュを作ったり、カンバスに抽象的な絵を描いたりと実験的なことをしていた。デザイン画を使わずに、抽象的な柄や、キュビズムのように幾何学的図形を使って即興的に自由なデザインでタペストリーを作ることは今では珍しくないが、当時(1960年前後)は驚くべきことだった。

1962年、アバカノヴィッチは国際的な場で自分の作品を初めて発表した。それは、スイスで開催された第1回国際ローザンヌ・タペストリー・ビエンナーレで、ポーランドからの出展として3人のうちの1人に推薦された。戦後の貧しいポーランドでは高級な毛糸や絹糸が手に入らなかったため、彼女はウール、麻、木綿などで織った。デザインも、ほかの出展者2人のデザインも新奇性はあったが、アバカノヴィッチの「Composition of White Forms」(2m x 6m)のオリジナル性は抜きん出ていたという。東欧作家によるこれらの先鋭的な作品は、「ニュータペストリー」と呼ばれた。

その後、アバカノヴィッチは、「タペストリーは四角形」という概念を越え、有機的な形の作品を作るようになった。家やスタジオに角、皮革、貝、繭といった自然の素材も置いてインスピレーションを得たり、作品にも使ったりしていたといい、一部が2の部屋に展示されている。

1965年、アバカノヴィッチは、ポーランドの国立芸術大学(現在のマグダレナ・アバカノヴィッチ芸術大学)の教授に任命された。

© Fundacja Marty Magdaleny Abakanowicz Kosmowskiej i
Jana Kosmowskiego, Warsaw. 

布の作品が、壁を離れて立体化

その後もアバカノヴィッチの探求は続いた。1966年~1967年、彼女は作品を壁に飾るのではなく、天井から吊るして、どの方向からも鑑賞できる作品を手掛け始めた。3の部屋に入ると、すぐ目の前に吊るされているのが、その頃の作品「Abakan étroit」だ。巨大な黒い布の筒が、黒とワインレッドの円型の布で覆われていて、前面が開いている。人がマントに包まれている姿のように見えるが、虫のようにも思える。

「1966年、私は壁から離れた、空間に存在する最初の織物の作品をいくつか完成させました。こうした作品を作る時は、タペストリーでも彫刻でもないものにしたいと思っています。タペストリーの実用的な機能を完全に消し去ることに魅了されるのです」(アバカノヴィッチの言葉。本展の報道発表資料より引用)

巨大な布の彫刻の多くには「アバカン」のタイトルが付けられ、アバカノヴィッチの代名詞のようになった。3の部屋には「アバカン」ほか、布の巨大彫刻が11点吊るされた「繊維の森」があり、作品の間を歩くことができる。それらの布の塊は植物か、細胞か、臓器の一部か、人間か、洋服か、どう解釈してよいのかはわからない。3の部屋の作品は、緑、赤茶、こげ茶、黒といった暗いトーンだ。

「アバカン」シリーズは、アバカノヴィッチにとって非常に重要なものだったという。それらは、彼女と外の世界をつなぐ架け橋のような存在だったそうだ。「作品は自分の世界なので、作品に囲まれていると安心できる雰囲気を作り出すことができました。「アバカン」シリーズは具象と自然の中間のような存在で、ある時は動物、ある時は人の姿でありながら、幾何学的な抽象性も持ち、決して明確に説明することができないものです」と言っている。

ニュータペストリーがここまで進化すると、もはやタペストリーという言葉では表現しきれなくなり、替わりに「テキスタイル彫刻」「テキスタイルアート」「ファイバーアート」という呼び方が登場した。

布の巨大彫刻は「アートのインスタレーションの先駆け」でもあった

先の部屋に進むと、また「アバカン」の集合体がある。しかし、今度は暗い色ではなく、黄、オレンジ、赤と明るい色が中心だ。「繊維の森」でも作品のサイズに圧倒されたが、明るいトーンの作品群にも、飲み込まれてしまうかもと感じられるほどの迫力がある。

たくさんの「アバカン」と少し離れて吊るされている、2点の布の彫刻「Set of Black Organic Forms」も特徴的だ。この2つには、太く長いロープがつなげられ、ロープが床に這うように置かれている。アバカノヴィッチの創作では、ロープも重要なエレメントだった。ロープは彼女にとって石化した生物のようで、展示室同士また建物同士をロープでつなげてインスタレーションを作り上げることもあった。

アバカノヴィッチの布の巨大彫刻は、インスタレーションという表現方法の点でも革命的だった。当時アート界にはインスタレーションやイマーシブ・アートという言葉はまだなく、アバカノヴィッチは、作品を空間の中で体験するという鑑賞方法を築いた先駆者の1人だった。

もう1つ、「アバカン」の集合体の脇に飾られた多数の玉「Embryology」シリーズも目を引く。卵にも繭にも巣にも、さらには鉱物にもジャガイモにも見える。1つ1つは一見重そうにも感じられるが、外側も中身は繊維なので軽い。アバカノヴィッチは、人間や動物の神経系の再生と発達について考察しようとこのシリーズを作ったという。「アバカン」シリーズによって、ファイバーアーティストと呼ばれることに抵抗を感じていたことも「Embryology」を作る動機になったという。この作品からも、アバカノヴィッチが質感や連続性などに関心が高かったことがわかる。

本展では、タペストリーが平面から3Ⅾの世界へ飛び出したプロセスがよくわかり、繊維という素材の可能性、形の発展、色の移り変わりなどがとても面白かった。1つ残念だったのは、展示作品にふれられなかったこと。硬そうでも、しなやかそうでもあり、ひだや穴やロープといった有機的なフォームの細部を触覚でも楽しみたいという衝動にかられたのは、おそらく筆者だけではないだろう。そんな抑え難い気持ちを起こさせるほど、どの作品も胸に迫ってきた。


Photo courtesy:©︎Tate Photography, Madeline Buddo
© Fundacja Marty Magdaleny Abakanowicz Kosmowskiej i
Jana Kosmowskiego, Warsaw. 
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■ Magdalena Abakanowicz: Every Tangle of Thread and Rope at Tate Modern

会期:2022年11月17~2023年5月21日 


岩澤里美
ライター、エッセイスト | スイス・チューリヒ(ドイツ語圏)在住。
イギリスの大学院で学び、2001年にチーズとアルプスの現在の地へ。
共同通信のチューリヒ通信員として活動したのち、フリーランスで執筆を始める。
ヨーロッパ各地での取材を続け、ファーストクラス機内誌、ビジネス系雑誌/サイト、旬のカルチャーをとらえたサイトなどで連載多数。
おうちごはん好きな家族のために料理にも励んでいる。
HP https://www.satomi-iwasawa.com/