40歳で単身フランスのパリに渡り、以来約40年以上、欧州を中心に活躍した日本人画家、吉田堅治(1924-2009)。日本でその名は広く知られてはいないが、「マヤ・シリーズ」や「平和の祈り」など数々の重要な作品を発表し、1993年には存命中の日本人画家として初となる個展がイギリスの大英博物館で開催されるなど、世界的に高い評価を受けてきた。

今年7月から11月末にかけて、日本では初となる個展が千葉県富津市金谷にある鋸山美術館にて開催された。「鋸山美術館 特別展 吉田堅治展 《LA VIE=生命》」と題された本展覧会では、吉田氏が渡仏してから2009年に亡くなるまで45年間に渡って創作した作品の一部、60点余りを展示。今回の記事では、展覧会アーカイブの記録として、作家の生涯と作品の一部をご紹介したい。

鋸山美術館。昨年10周年を迎えた鋸山美術館は、海、山に囲まれた美しい自然の豊かな立地も魅力だ。

吉田堅治の知られざる生涯
創作の原点は、自身の戦争体験

1924年大阪府池田市に生まれた吉田堅治は、幼少期に年上の兄に連れられ、美術館や神社仏閣古墳に出掛けたり、世界美術全集を観るなど外国への憧れを持ちながら育った。その後、池田師範学校(現・大阪教育大学)で美術を学び、本格的に絵を描くようになる。大阪第二師範学校の卒業を目前にした1944年、繰り上げ卒業すると、太平洋戦争のさなか、軍隊に入り土浦海軍航空隊でカミカゼ特攻隊員として訓練を受けた。

当時書かれた吉田のノートには、当時の想いがこう綴られている。
「訓練を受けつつ、戦争とは?生とは?死とは?と自らに問う毎日。いのちの尊さ大切さを云いながら戦争はこれを打ち砕く行為。これを神が許すであろうかと強い怒りを覚えた」

1945年、出撃することなく終戦を迎えた吉田は、爆撃で破壊された街、死傷者を見つつ郷里に戻り、教職に就く。そんな自らの体験によって、「生と死」を深く意識しながら過ごした。1964年に40歳で教職を辞し、パリで画家として生きることを決意する。

吉田堅治

こだわった「黒」の表現

渡仏前の1950年代から抽象画を描き始め、自己と絵画表現の確立を目指すようになった吉田。軍隊で訓練を受け、多くの戦友の死を目の当たりにし、また自らも死を覚悟した経験から、「生と死」、「生命」とは何かを問い続けた。特にこだわったのが「黒」の表現だ。深い内省の果てに、「黒色はすべての色を吸収している。黒を知ることは自分を知ることになり、そこに無限の表現要素がある」と語るように、吉田の描く無機的で深い闇のような「黒」は重要な要素となっていく。以後、生涯をかけて、その表現を深化させていった。

「鋸山美術館 特別展 吉田堅治展 《LA VIE=生命》」

画家としてパリへ

パリ時代初期には、イギリス人画家スタンレー・ウィリアム・ヘイターが開設した銅版画工房アトリエ17(ピカソ、ミロ、エルンスト、ダリ等も制作)に通い、世界各国のアーティストとともに銅版画制作に専念。ヘイター式一版多色刷り版画、エッチング、シルクスクリーン、油彩技法など様々な表現を試みる中で、独自のスタイルを模索した。その後、彫刻家アベル・レ・フェノーサの助手としてそのアトリエの一隅で生活をしながら彫刻制作を手伝い、交友関係を広げるとともに徐々に発表の場も国際的になっていった。

1972年には、フランス政府の芸術家アパートに入居し、結婚。1980年頃から全ての絵の題名を「La Vie(生命)」と名付けた。「いのちの根源を考えた時に、刻々と変化する表面的なものではなく、一つの動かぬいのちの中にあらゆる時の働きを表現すべきだ」と悟ったという。1983年には、日本再認識の必要性を感じ20年ぶりに日本に一時帰国し、以後、日本の金銀箔で表現していく。

1986年に最愛の妻、上原寛子を亡くした吉田の表現は、更に深い祈りの場に変わっていった。

吉田堅治展 《LA VIE=生命》

世界で高く評価された「マヤ・シリーズ」

吉田の表現の転機となったのは、1990年のメキシコ、キューバの旅にある。友人でもあり、生涯のエージェントでもあったホセ・フェレス・クーリと共に約3ヶ月間メキシコ、キューバに滞在し、そこでマヤ遺跡の造形美と大自然の雄大さに感銘を受けた。神秘的な美しさに吉田は宇宙的な繋がりを感じたと言い、それを「マヤ・シリーズ」として発表。

「マヤ・シリーズ」をきっかけに吉田の画面には色彩が溢れている。赤や青、緑など原色を用いた表現が増え、個々の造形にも古代人に触発された躍動感が広がっていく。1993年、ロンドンにある大英博物館にて個展が開催され、存命中に回顧展が開催された初の日本人画家となった。展覧会を企画した日本美術部長のローレンス・スミス氏は「吉田はコスモス(宇宙)を描こうとしている」と、その表現を高く評価している。以後、ヨーロッパや中南米にて展覧会を開催するなど、吉田の表現する「生命」は世界的に認められていった。

「平和」をテーマに活動

2000年以降、吉田は「平和」をテーマに作品を制作する。イギリスとアイルランドの大聖堂で行ったインスタレーションでは12枚の巨大なパネルを八角形に組み、平和の祈りを捧げる「祈りの場」を創出した。最晩年は吉田の表現も純化し、円や丸などのより単純で普遍的な造形が増えていく。

2009年、病気のため日本に戻り、2週間後、癌のため亡くなった。享年84歳。吉田の願う「祈りの形」は、永遠に輝き続けている。

鋸山美術館の館長 鈴木裕士さんは、本展示の開催に至るきっかけとなったのは「人の縁」だと教えてくれた。吉田堅治氏の作品を観て魅了されたという。「命の画家・吉田堅治。コロナ禍、自国主義の万永、宗教民族間抗争など、今世界を覆う分断。宗教を超え、人類の調和、命、平和を心から願った作家の生涯と作品に込められた想い、作家の魂を観る、というより感じて欲しいです」

40歳でパリに渡り、命と平和の大切さを人々に伝えようと絵を描き続けた吉田の作品数は3,000点にのぼる。鋸山美術館での展示会期は終了したが、今後、吉田堅治の作品展が開催される際には是非足を運んでみてほしい。

” 「いのち」は「平和」あってこそ最高に働き輝く。「平和」こそ最高の美である。” 吉田堅治


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吉田堅治