アート好きな人なら、東京の国立西洋美術館を訪れたことがあるかもしれない。機能美にあふれた鉄筋コンクリート製の同美術館は、竣工から60年を経た現在も美しい。設計は、パリに住んでいた著名な建築家ル・コルビュジエ(1965年没)だ。1955年の来日後に設計図を描き、寸法など細部に関しては、パリの彼の元で働き日本に帰国していた弟子たちが担当した。いまでは当たり前に見られるこのような洗練されたコンクリートの建築スタイルは、およそ100年前にル・コルビュジエによって開花した。

ル・コルビュジエは、1887年秋にスイス北西部の町ラ・ショー・ド・フォンで生まれた。その年の初め、パリではエッフェル塔の建築が始まったが、のちに彼が29歳でそのパリに定住し、世界的に活躍することになろうとは両親は想像もしなかっただろう。彼の建築物は主にフランスにある。

だが故郷スイスにも、彼の作品はいくつかある。今回は、パリに移り、近代建築の巨匠と称えられるようになる以前の作品と、77歳で他界する数年前に設計した最後の建築であるチューリヒの美術館「パビリオン・ル・コルビュジエ(Pavillon Le Corbusier)」を訪ね、彼の建築家としての発展の軌跡をたどってみる。まずは、ル・コルビュジエが生まれ育った町ラ・ショー・ド・フォンへ向かった。

ネオクラシックなスタイル~ジャンヌレ邸(ラ・メゾン・ブランシュ)

ジュラ山脈のふもと、スイスの時計産業の中心地として知られるラ・ショー・ド・フォンには、ル・コルビュジエが手掛けた建築が6軒残っている。そのうち5軒は外観のみ見られ、唯一内部まで見られる1軒がジャンヌレ邸(La Maison blanche)だ。これは彼が両親のために建てた家で、彼自身も数年間一緒に暮らした。音楽家だった彼の兄も暮らした。補修工事を経て2005年から公開され、年間約4000人が訪れるという。

小高い丘に建つ白いジャンヌレ邸(1912年完成)は、ル・コルビュジエが25歳のときに建築家として独立し、初めて手掛けた作品だ。それ以前、ヨーロッパにアール・ヌーヴォー芸術運動が広がっていたころにも共同また単独でこの町の家々を設計したが、それらはスイスの田舎に見られる木製の民家で、有機的な色合いが非常に強かった。

一方、ジャンヌレ邸は鉄筋コンクリート製だ。自分のアトリエを構える前、パリやベルリンで建築のインターンシップをしたことが影響した。また、およそ半年かけて東ヨーロッパ、トルコ、ギリシャ、イタリアなどを旅したことも刺激となり、この家は様々なスタイルがミックスした、ひときわ個性あふれる一作になった。

ジャンヌレ邸は、コンクリートの柱2本を建てた小さい門扉から入る。玄関アプローチを上ると、庭とガーデンハウスが目の前に開ける。ル・コルビュジエの父は花壇や野菜畑や木々の手入れが大好きだったという。両親はル・コルビュジエがパリへ移った後で引っ越し、この家は何十年もの間に何度も所有者が変わった。家の構造は大幅に手を加えられることはなかったものの、庭とガーデンハウスはまったく違うものになったという。一家が住んでいた古い写真をもとに、オリジナルの形を取り戻した。

古い写真は、一家が住んでいたころの様子を再現するのに役立った。玄関を入ってすぐのキッチンは棚の一部がオリジナルのままで、全体をモダンな設備に作り替えたが、床のモザイク柄は再現された。この家には窓が多く、キッチン上部の窓から差し込む自然光とともに、窓越しの木々の緑も印象的だった。

キッチンを抜けるとダイニングルームがあり、ここから庭へ出ることができる。ダイニングルームからリビングルームへは、大きいフレンチドア(観音開き)を抜ける。ちなみに、このフレンチドアを取り付けた部分を、ル・コルビュジエは「大聖堂の翼廊(聖職者たちの領域である内陣と礼拝者が座る場所を横断する部分)」と呼んだという。

リビングルームは花柄(複製)の壁が可愛らしい。グランドピアノは音楽教師だった母のためにル・コルビュジエが設計して作らせた本物。セラミック製の暖炉もオリジナルで、彼が暖炉に描いた絵は残念ながら消えてしまったという。ここにある椅子やソファは、美術館などの協力も得て当時のスタイルのものを探し当てた。ソファの上にかかる花の絵は、ル・コルビュジエの親友が描いて彼にプレゼントしたものだそうだ。

さて1階を見終え、玄関ホール脇にある階段を上って2階へ行こうとしたら、スタッフに呼び止められた。丸い窓の右上が1箇所ぽっこりしているのを指差し、「これは設計ミスなのですよ。ル・コルビュジエも、若いころは完璧ではありませんでした」と教えてくれた。

2階には、両親の寝室、ル・コルビュジエの寝室(壁が黄色い部屋)と彼の仕事場、そして浴室がある。2階にも、モザイクの床が見られた。各寝室の大きい四角い窓からは、周囲の自然や庭が眺められ心地いい。仕事場の天窓は、柔らかい光を運んでいた。

ここからは、兄のスペースだった屋根裏部屋にも行ける。また、1番下には地下階もある。地下は、時計職人だった父の仕事場だったという。

故郷の町に残る、古い建築群

ジャンヌレ邸からは、 ル・コルビュジエが設計した木製の民家3軒がとても近い。1分歩くと、ジャクメ邸(Villa Jaqumet)シュトッツァー邸(Villa Stotzer)があり、さらに1分下るとファレ邸(Villa Fallet)がある。共同設計したファレ邸が1906年に建ち、続いて、ル・コルビュジエは、ウィーンに4か月滞在している間にファレ邸と同様のスタイルでジャクメ邸とシュトッツァー邸を設計した。3軒とも住人がいるため中を見られないのが残念だが、巨匠のキャリアが民家から始まったことが実感でき、興味深い。

ファレ邸からさらに下って歩くこと約13分、趣が異なるもう1軒の作品が待っていた。コンクリートと黄土色のレンガ製のオリエンタルな雰囲気のシュウォブ邸(Villa Turque)だ。彼がパリに引っ越す前に完成した作品中で、最高作といわれる。ジャンヌレ邸と同じように半円形の突き出し部分(ジャンヌレ邸では1階ダイニングルーム、2階ル・コルビュジエの寝室)があるが、シュウォブ邸では屋根を平らにしている点などが異なっている。

次は、旅の後半だ。ラ・ショー・ド・フォンを離れ、電車で東へ2時間のチューリヒへ向かった。

アイデアが凝縮した館~パビリオン・ル・コルビュジエ

建築家として名を馳せたル・コルビュジエは、晩年、自分のための展示場を設計するチャンスをスイスで得た。建築場所はラ・ショー・ド・フォンではなく、スイス最大の都市チューリヒだった。その好機は、ギャラリストでありスイスのアート収集家でもあり、彼の絵画や家具のファンだった30代のハイジ・ウェーバーがもたらした。ウェーバーは、チューリヒ湖沿いの公有地に、市から50年間の建築権を得て美術館を建設した(1967年完成)。2014年春以降は市の所有となり、「パビリオン・ル・コルビュジエ」と改名した。

美術館は、コンクリートと共にスチールとガラスを多用した彼の唯一の作品だ。木もたくさん使われている。彼の最初のアイデアではコンクリートがメインだったが、変更した。長いスチールで部屋の枠組みを作ることに決め、それらはボルトで固定された。20万個以上のボルトが使われ、建設時はかなりの手間だったという。外壁のカラフルな色は、ル・コルビュジエが継続していた色の研究の極みといえる。白、黄、緑、赤、黒の5色のエナメルのパネルが熟慮の上、配置してある。なお、今季開催中の同美術館の企画展は「ル・コルビュジエとカラー」だ。写真や図面などで、彼の建築と色に関する節目をたどっている。

ダイニングルーム

美術館に入ろう。一歩入るとガラス張りの広いリビング・ダイニングルームがある。その奥には、ピカピカ光るステンレス製のコンパクトなキッチンがある。レンジフードの赤がアクセントになっている。廊下を進むと、両面にル・コルビュジエの絵をプリントした巨大な回転式の扉がある。内側は1963年作の線画、外側は1964年作のリトグラフだ。この扉は中の空間を外の空間へ一気に開放する役割を担っているという。

キッチン

廊下を突きあたると、天井が高いホール(アトリエ)がある。ここには、木の空間の中2階があり、備え付けの木製家具を見ることができる。筆者が訪れたときは、ホールにル・コルビュジエが共作デザインした椅子4点が展示されていた。ル・コルビュジエというと、もしかしたら建築よりも椅子のほうを思い浮かべる人もいるかもしれない。椅子の量産化に貢献したのは、美術館の大黒柱であるウェーバーだった。

2階へ行くには、階段またはスロープを使う。階の移動手段を選べるようにとル・コルビュジエは考えた。彼はスロープが好きだった。1階と2階をつなぐスロープは少し暗い。2階と屋上をつなぐスロープは外付けで屋外を通るので明るい。スロープは、上に行くほど太陽に近くなって明るいという状態を反映したかったのだという。2階は、ル・コルビュジエの絵画などの展示室として使われていた。2階では、彼の色に対するこだわりを再び見ることができた。むき出しのパイプの色だ。青は雨水用、黄色は電気用、赤はお湯用だという。

最後は、見晴らしのいい屋上へ向かおう。非常に重厚な波型の屋根は、2パーツを組み合わせて作った。屋上は、ル・コルビュジエの建築哲学である「近代建築の5原則」の1つ、「屋上庭園」を具現化している。

館内では、ほかにもランプ、木の椅子や木の本棚、ドアノブなど、至る場所でル・コルビュジエのスピリットを楽しむことができる。実は2階にベッドルーム2つを作る案もあったそうだが、実現しなかった。全体としてみると、住むための空間を意識したのかと思うかもしれないが、あくまでも展示という目的で設計したそうだ。建築家、家具デザイナー、画家として、まさに彼のアイデアの集大成の場であるこの美術館は、建築に興味のない人でもきっと楽しめるはずだ。

チューリヒでは、あまり歓迎されなかった

 
ところで、ル・コルビュジエは、スイスを離れてからチューリヒでも大型建築を設計しようとしていた。昨年のパビリオン・ル・コルビュジエの企画展「ル・コルビュジエとチューリヒ」によると、チューリヒとの関係が始まったのは、パリに引っ越す前の1915年。いとこの依頼で、彼女のアパートの改装を請け負ったのだが、このアパートは残っていない。

その後、1926年にチューリヒで最初の講演を行い、翌年には「チューリヒはまた行きたい、活気ある、感じのいいフレンドリーな都市だ」と書き残した。1928年からは共にCIAM(近代建築国際会議)を創設したチューリヒの美術史家ジークフリート・ギーディオンと親しくなり、1930年からは建築家ウィリー・ボジガーとチューリヒの書店オーナーが、ル・コルビュジエの作品集を手掛けた。こうして、チューリヒの建築専門家たちの間ではル・コルビュジエの偉才は高く評価されていったものの、万人にはなかなか受け入れられなかった。1932年から33年にかけた3つの計画(市が彼に依頼した集合住宅2軒、生命保険会社の本社新築コンペ)は先方の都合により、結局、着手できずに終わった。

それでも、チューリヒ大学とスイス連邦工科大学チューリッヒ校の両校から名誉博士の称号を授かったり、スイス最大規模のコレクションを誇るチューリヒ美術館で2度の展示が開催されたりと、ル・コルビュジエの存在感はチューリヒに徐々に刻まれていった。そして、いまやパビリオン・ル・コルビュジエは、スイスの顔であるチューリヒにも根付き、多くの市民や観光客が訪れている。

昨年の展示の様子

ル・コルビュジエの偉業は、およそ60年に渡った。強いエネルギーと独創性の追求を見て取れる「始まりと終わりの建築作品」を彼の地元に残せたことは、スイスにとって、とても大きな幸運だ。彼の貴重な建築作品は、これからもずっと愛されることだろう。


ジャンヌレ邸(ラ・メゾン・ブランシュ)
6月~9月  金~月のみ開館
10月~5月 金、土、日のみ開館

パビリオン・ル・コルビュジエ 
夏季(5月~11月)のみ開館。月曜休館。  
6億円以上の費用をかけた大規模な改修工事が終わり、2019年に再オープンした。


Photos by Satomi Iwasawa

岩澤里美
ライター、エッセイスト | スイス・チューリヒ(ドイツ語圏)在住。
イギリスの大学院で学び、2001年にチーズとアルプスの現在の地へ。
共同通信のチューリヒ通信員として活動したのち、フリーランスで執筆を始める。
ヨーロッパ各地での取材を続け、ファーストクラス機内誌、ビジネス系雑誌/サイト、旬のカルチャーをとらえたサイトなどで連載多数。
おうちごはん好きな家族のために料理にも励んでいる。
HP https://www.satomi-iwasawa.com/