東京出身、在住の写真家、阿部裕介さん。澄んだ空気がそのまま伝わってくるような、ヨセミテの美しい山々の風景を切り取った、THE NORTH FACE(ザ・ノース・フェイス)の広告などで、彼の存在を知っている人も少なくないかもしれない。
大学生になるまで海外への興味は全くなかったと話す阿部さんは、現在、興味の赴くままノンストップで世界中を旅しながら、先々で出会う人々とその暮らしを記録し続けている。
ファッションや広告の仕事の合間に撮りためてきたという彼の写真には、 “ドキュメンタリー” というキーワードが共通している。これまで、ネパールの、ニムディ −かつて少女強制労働問題のあった村−「ライ麦畑にかこまれて」(2017年)や、パキスタンの辺境に住む人々の普遍的な暮らしぶり 「清く美しく、そして強く」(2018年)、そして日本では家族写真のシリーズ、「ある家族」を撮影してきた。
時には煌びやかで移りゆくファッションの世界を、そして一方では、純粋で素朴な人々の暮らしを切り取る阿部さんの眼は、世界をどう見つめているのだろうか。写真を始めたきっかけから、これまでの活動についてお話を伺った。
阿部さんは写真を独学で学んだと聞きました。写真の世界に入ったきっかけを教えてください。
大学生の時に初めてヨーロッパへ一人旅をしました。その旅で出会ったある人に影響されて写真を撮り始めました。
阿部さんは写真を始める前、どんなことに興味がありましたか?
写真を始める前は何にも興味がなかったんです……。海外にもほとんど興味がなくて、21歳頃までヨーロッパとアメリカの違いもわからなかった。ヨーロッパもイギリスもアメリカの中にあると思っていたくらい(笑)ずっとテニスをやっていたんですけど、テニスのことばかりでした。
学生時代に初めて海外へ行ったときの話を聞かせていただけますか?
初めてのヨーロッパ旅行では計画もせず勢いでロンドンに行きました。それまで海外に行ったことがなかったので英語も全然わからなかったですし、何からやっていいかさっぱりわからなくて。毎日街を歩いてましたが、初めての海外では全てが衝撃でした。安宿に泊まったり、カウチサーフィン生活をしながら、ロンドン、ベルギー、オランダ、ドイツ、チェコ、ハンガリー、イタリア、そしてフランスを旅したのですが、いろんな意味でものすごいカルチャーショックを受けました。
初めての海外なのに、すごい行動力ですね。
初めての旅では贅沢をしたくて、一気に沢山の国へ行きました。というのはその旅が終わったら、一生海外には行かないだろうと思ってたんです(笑)最後にパリへ行きましたが、人と出会わないと何にもすることがないなぁと思い、帰国しようと決め、帰ろうとしてたんです。空港で飛行機の出発を待っている時、人生を変えるきっかけになった人、豊嶋慧さんを見かけて。今でも鮮明に覚えてるのですが、なんか格好いいスーツケースを持っている人がいるなぁと。この人は何をしている人なのかなぁと興味を持ちながらも飛行機に乗りました。アブダビで乗り換えだったんですが、乗り継ぎの飛行機が行ってしまって……どうしよう、と思っていたら慧さんがトントンって肩を叩いてくれたんです。そこで、慧さんと知り合いました。
旅の最後に人生を変えるきっかけとなった出会いがあるとは、ドラマチックですね。実際に人生を変えたというのは、どんなことがあったのでしょうか?
当時からパリでファッションデザイナーとして活躍していた慧さんから、独学でデザイナーになったという話を聞いて驚きました。帰国ルートが同じだったので色んな話をしたのですが、「阿部くんもカメラやればいいじゃん」と言われてはっとしました。その旅では、行く先々で出会った人たちの写真を撮ったりしていたのですが、「そういえばスペインで出会った人にも言われたなぁ、カメラマンって道があるんだ……」と思って。僕は一般の大学に行っていたので、そのまま普通に就職をすると漠然と考えていましたが、「カメラやりなよ」と言われて、それからワクワクして、帰国する飛行機の中でずっとカメラマンになることを考えていました。
旅での人との出会いが、写真を本格的に始めるきっかけだったんですね。その後インド、ネパールなど、アジアの国々にも行かれていますね。
初めての旅から半年後、授業中にインド行きの航空券を取りました。片道29,000円の中国乗り換えの最安の飛行機です。それからインドの旅が始まりました。
阿部さんのホームページで紹介されている、インドで撮影された映像を拝見しました。とても印象に残るドキュメンタリーだと思いました。あの映像はどのように生まれたのでしょうか?
あの映像は自分自身、写真や映像作品を撮るにあたって、「ドキュメンタリーってこんな凄いんだ」と思うひとつになったものです。大学4年の時に、丸2ヶ月半かけてインドを旅しながら、色々な人にインタビューをしながら撮影しました。その時インドで大洪水があったのですが、被害にあった場所へ直接行って人々のサポートをしたり、色んな経験をしました。また、ラダック地方の取材の際には、ひたすら高所を歩きつづけ、疲労からか、気絶して運ばれて入院したり。
悪いことが立て続けに起きたのですが、とうとうネパールでカメラが壊れてしまって。デリーに戻ってカメラ屋さんで修理してもらっていたんです。安宿に泊まっていた時に、この映像に出てくる神田さんと出会い、インタビューしたものがこの映像です。それまで沢山の人をインタビューしていましたが、その中で一番良いと思ったのがこのインタビューでした。
神田さんが言葉を選びながら、インドで感じたリアルな体験を語る映像のライブ感は、心に響くものがありました。
神田さんは初めての海外だったそうなのですが、話してみるとすごく良い人でした。その後の旅のターニングポイントになった人です。一眼レフや良いカメラがどれだけいいかっていうのは関係ないってことに気付いた作品でした。
「ライティングが綺麗な作品」「知識がある写真」ではなくて、「自分の足で稼ぐ写真」が、自分にとって一番合っている、ということに気付いたのかもしれません。
インドでひとつの映像を撮影したときの気付きが、いまの阿部さんのスタイルをつくったのですね。
インドでは体調を壊したり、色んなことがあってすごく嫌だと思ったこともありましたが、良い人たちにも出会えて、正直、ヨーロッパよりもインドはすごくドキドキしたし、色んなことを沢山考えた旅になりました。だんだん気持ちが解放されてきて、行動範囲も広がりとにかく行けるところまでどんどん行ってましたね。
2015年ネパール地震のあと、阿部さんは被災地へ行き支援活動をされていたと聞きました。そのときの話を聞かせていただけますか?
当時はニュースやSNSで情報が沢山出ていたので、地震が起きた2日後にネパールへ行き、現地に居た日本人と協力しながら被災地を支援をしました。単純な動機は、友達に会いに行ったんです。現地で物資を購入し、物資が届かない場所にいる人達に届けることや、その様子を撮影してSNSなどで発信しました。
あの時の支援はものすごく大変でした。何故支援が届かない場所があったかというと、雨季でカトマンズからバブレという村までしかバスが通っていなくて、その先はバスでは通れない、崖っぷちで車一台やっと通れる状況でした。ぬかるんで崖から落ちてしまうような危ない道だから、誰も行かない。でもこういうところだからこそ、個人でも行けると思ったので行きました。実際は、すごく怖かったです。何度も車がスリップして崖から落っこちそうになりながら、ずっと「ビスターレ、ビスターレ(ゆっくり、ゆっくり)」と言いながら十何時間も移動して……。移動していると、今度は車が壊れてオーバーヒートしてしまいました。自分たちの飲料水を車のタンクに入れて冷やしましたが、それでもすぐにオーバーヒートしてしまって。自分たちの飲み水が無くなってしまったので、仕方なくドラム缶に溜まった雨水を飲んでいましたが、支援のあと体調を崩しました。でもその時は、ネパールの人が喜んでくれるならと思って。
ネパールには、その後も定期的に訪れていらっしゃいますね。
地震が立て続けに起きたので、支援をしに行ったり、写真を撮りに行っています。2016年に、ニムディという村、昔カムラリという少女強制労働の風習があったところへ行きました。そこでネパールの奴隷問題の女性たちに会いに行って、それから毎年通うようになり、写真を撮っています。今はこの子たちに会うためにネパールに行っています。村に住む、素朴で純粋な目をした彼女たちの、ありのままの姿を残したいと思いました。
その頃から、自分は「人」を撮り続けていこうと決めました。大げさなことじゃなくて、すごく身近にあるけど、薄れてしまう風景や、家族写真。ネパールの人々の写真は、日本にいるとそう簡単に直接は見ることはないけど、でもそれは確実にある、人々の日常です。
阿部さんご自身、写真家として普段大事にしていることはどんなことですか?
運です。そして運が訪れた時にそれを掴む力です。「その出来事の目の前にいることが実力」だとアドバイスしていただいた事があり、それを大切にしています。
写真を始めて6年、変化をどう感じていますか? 今後の目標はありますか?
以前より今の方が、展示会をしたら人がきてくれるし、人に影響を与えられる可能性があると思います。僕がまだ無名の駆け出しの頃に、ある有名なデザイナーさんがイメージやフライヤーに僕の写真を使ってくれました。その時に、あんなに世界的にすごい人が、大学生の売れてもいない時に使ってくれるんだって、すごく感動しました。だから、自分も身近な人をちゃんと助けられる人になりたいと思っています。有名になりたい。それは、それなりに影響力を持つことで、写真や、自分の活動をもっとやりたいという意味です。写真は人を変えられるんじゃないかな、変えるお手本になることができる、そう思っています。
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Yusuke Abe
1989年東京生まれ。写真家。青山学院大学経営学部修了。
大学在学中より、アジア、ヨーロッパを旅する。在学中、旅で得た情報を頼りに、ネパール大地震による被災地支援(15年)や、女性強制労働問題「ライ麦畑に囲まれて」や、パキスタンの辺境に住む人々の普遍的な生活「清く美しく、そして強く」を対象に撮影している。日本での活動としては家族写真のシリーズ「ある家族」がある。
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Photo by SHINSAKU YASUJIMA