メジャーのミュージシャンがインディーズのミュージシャンを慕い、敬い、時に自らのバンドのメンバーに迎える。また、その立場が逆転することもある。過去では珍しかった、そんな状況が近年、日本の音楽シーンで起きている。インターネットやデジタルデバイスが生活の一部となったデジタルネイティブたちが、ジャンルや立ち位置を全く気にせず過去と現在を自由に行き来し音楽を聴きまくり、ツギハギのような音楽体験を表現のソースにし始めた。と同時に、インディーズミュージシャンたちのコアなセンスや高いテクニックを評価しやすくなった、など。その状況の要因は様々だ。ただ、それが急に、何の前置きもなしに起こったかというと、おそらくそうではないだろう。

origami PRODUCTIONS(以下、origami)という7組のミュージシャン/バンドが所属しているインディーズレーベルがある。設立された2007年からしばらくの間は、ジャズ、R&B、ヒップホップと細分化されたブラックミュージックすべてにオマージュを捧げ、東京製のジャムにこだわったスタイルの音楽を展開していたが、現在はかなり様相が変わってきている。origamiの特徴のひとつとして、所属ミュージシャンの大半が楽器を限定しない高度なマルチプレーヤーのプロデューサーで、ソングライティングまでこなし、ジャンルに固執しない高い柔軟性をもつ点が挙げられる。どこを起点にとは、おそらく当人たちも断言できないと思われるが、ある時からメジャーが、企業が彼らのクールなセンスとテクニックを求め始めたのだ。冒頭に触れた現象には、こういった背景があったと考えられるかもしれない。つまり、origamiが約10年かけてまいてきた種が、ようやく花開いたのである。

origami所属ミュージシャンのなかでも、とりわけワーカホリックだといえる mabanua(マバヌア)は、Shingo Suzukiがベースを、関口シンゴがギターを務める Ovallというバンドのドラマーとして、origami設立とほぼ同時期にキャリアをスタートさせた。当初は1990~2000年代初頭に隆盛したヒップホップに所縁がある、機械的なものではない、有機的なリズム(よく、つんのめった、という表現をする、わずかなズレのあるもの)を生音で表現することを追求していたと思われる。しかし、2008年の『done already』、2012年の『only the facts』といったソロアルバム、その間の多彩/才としか言いようがないほどの様々なコラボレーション/プロデュースワーク(書き切れないため、詳しくはページ末の mabanuaオフィシャルサイトでご確認を)を経て引き出しを増やしたことで、mabanuaは色々なカラーが溶け合った、当初とは異なる独自色を生み出した。

2018年8月29日、6年ぶりのソロアルバム『Blurred』がリリースされる。先のルーツが直に感じられるファースト、歌を全面的にフィーチャーしポップネスに振り切ったセカンド。聴き返すと、変化量はこのふたつの方が圧倒的に大きかったように感じる。『Blurred』は、印象としてはどちらかというと後者の延長線上にあると思われるが、音数は減り、「にじんだ」というタイトル名に反してソリッドになり、これまでずっと英歌詞がほとんどでフィーチャリングも海外のラッパー/シンガーが主だったのが、Achico、Charaという日本人女性シンガーに絞られた。

これまでのこと、『Blurred』に込められた想いなどを聞いた。

近年、日本の音楽シーンにおいて、メジャーとインディーズの垣根が段々となくなり、それと同時にクラシックなヒップホップへの理解度も高まってきていると思います。それを先行して実践してきたのが、origamiでありmabanuaさん、Ovallだったと考えているのですが、まず、そんな状況について、mabanuaさんご自身がどう感じていらっしゃるのかをお聞きしたいです。

セカンドをリリースした頃はEDM全盛の時期だったのもあり、ゆったりとしたテンポの音楽に対して冷たいムードがシーンにあってやり辛さを感じていたのは事実ですし、今のような状況は当時では考えもつかなかったですが、僕並びにOvallがその溝を埋めた存在だとは思ってないですね。そう思ってもらえることは、とても嬉しいことなんですけど。ただ、ある程度は緩和されてきた感じはするものの、まだまだ壁はあって。区切られたジャンルのなかで生きている人、特にヒップホップ側のシーンは未だに派閥をつくる傾向にあるように感じています。そこまで固執する必要があるのかな、という考えは昔も今も変わっていないですね。

その考えはmabanuaさんのルーツや嗜好とは一見異なるようなものでも積極的に取り組み、時々に対して最善を尽くす仕事の姿勢と通ずる部分があるように感じます。

実際にやってみないとわからないことの方が、圧倒的に多いですから。僕はドラマーとしての活動がメインではあるんですが、昔からギターもピアノもやっていたんです。それについて以前、先輩ドラマーから「ひとつの楽器に絞らないと極められないぞ」と叱られたことがあったのですが、結果的に今に結びついているんです。また、何かだけに限定してやっていると、テクニックとか機材にやたらとこだわるようになってしまうというか。それってミュージシャンしか喜ばない話題で、本当に考えなくてはならないのはリスナーだ、ということはいつも考えています。Ovallをやっていて一番良かったのは、(ベース担当の)Shingo Suzukiという、お客さんをフロアで踊らせるためのグルーヴを共に追求できるパートナーを得られたこと。目的がまずあって、それを実現させるためにテクニックを増やしたり、機材を変えたりという実験があるわけで、自分の幅をむやみに広げたとしても、それがちゃんと音楽に活かされていないと、何の意味もなさないと思うんです。

約4年の活動休止を経て、昨年活動再開が発表されたOvallの新曲。現在、アルバムを鋭意制作中とのこと。

ご自身の作品だけでなくプロデュースにおいても、同様の姿勢で取り組まれていますか?

そうですね。例えば、他のミュージシャンのプロデュースをする際は、まず鼻歌や簡易的なデモ音源をもらい、ドラムとベースのグルーヴを考え、そこからコードのアレンジをするというのが基本的な流れなんですが、常に意識しているのは、純粋に良い曲に仕上げたいということと、自分がそのアーティストのリスナーだったら、どういうものが聴きたいか、ということなんです。

mabanuaを表現するよりも、他のミュージシャン側に身を置くと。

確かにそうなんですが、僕がリスナーとして欲しているのは、どういう人にどういうものを聴いて欲しいかという作り手の明確な意志、信念。本当にコアな部分を感じた時、僕はその音楽に感動するので、そういったことを他の人にも味わってもらいたいと考えながらやっていくと、自ずと自分の色で仕上がっていく気はしています。

無意識的に出てくるものだけを拾い上げたときにできたものの方が良い

ここまでお話頂いたOvallやソロワークとは異なる経験、リスナーに聴かせたいというはっきりした目的、それを果たすための追及が『Blurred』にとても反映されているように感じました。今、聴き返してみると、1、2作目はこういうふうにしてみよう、してみたいというご自身のなかでのトライの集合体がひとつの形になっていた印象で、今回はこれまでの全部がソリッドに、シンプルになったように聴こえたんです。

現在の形になる前、一度、デモを作ったんですが、プロデュースワークをやり過ぎていたせいか、今、流行っている“何か”っぽい感じのものになってしまったんです。聴き返したら、すぐに飽きちゃって、その時点でデータを即消しました。そこで、自分が心底やりたいと思うことだけをやろうと改心して。フィーチャリングに関しても、前の2作はたくさん入れていたけど、今回は本当に一緒にやりたいと思っていたふたりだけにお願いしたんです。

『Blurred』に収録されている、RopesのAchicoをゲストに迎えた先行発表曲。

ファーストをリリースしてからおよそ10年。その間に好きで聴いてきたもの、弾いてきたフレーズ、叩いてきたパターンの蓄積、そこから無意識的に出てくるものだけを拾い上げたときにできたものにした方が良いと思ったんですよね。実は、色んなプロデュースワークに関わってきたからこそ、そこに則らないっていうのがイメージとしてあったんです。

なるほど。ただ、非常にピュアなアルバムだなと思ったものの、豊富な経験値を得られたからこその結果なのかな、とも感じましたが。

フレーズの良し悪しや格好良いものと格好悪いものの判別能力のようなものは、プロデュースしていくなかで培われていったかもしれませんが……。

常に色んな人と深く関わっているが故につく能力ですよね。

そこでわかったトレンドを排除していった結果、生まれた作品とも言えるかも。影響がないとも言い切れないし、存分に取り込んだというわけでもないし。言葉で表現するのはなかなか難しいですね……。

例えば、格好良い服を着たいと思っていたとして、それで色んな人に意見をもらいセンスを鍛えるとする。そうしていくと、始めは他人の意見やトレンドに従っていたのが、やがて自分にとっての良い組み合わせや選び方がわかってくる。その感覚と近いかもしれません。

そういった点って、歌詞に日本語だけを採用したことにも繋がりますか? これまでは英語だけを使っていたけど、最も馴染みのある、ナチュラルなものだけを選択したという先ほどの“イメージ”と結びつくような気がします。

すごく極端な言い方になってしまいますが、英語で歌うとお洒落な雰囲気にはなるんですよね。そこが安易な気がしてしまって。少し前から弾き語りのライブをやるようになって、狭い空間のなかで少数のお客さんだけに聴かせるっていう時、すべてが英語の歌詞だと、リスナーが少し辛そうにしている空気を感じたんです。場所の広さ、いる人の数がミニマムになればなるほど、ひとつひとつの音や言葉に意味を求めるようになりますよね。それを大切にしたいと思うようになって、『Blurred』でもやっぱり言語で歌おうと。今回、一曲だけフィーチャリングで参加して頂いたCharaさんは、日本語のパワーを存分に活かして歌っている僕にとって唯一無二の存在。「愛してる」とか「会いたい」とかわざわざはっきり言わなくても、言葉尻で意味が伝わってくる凄みがあるんですよ。そこを目指したい、と。

日本語が良いとか、英語が良いとか、そういう枠で考えているというよりも、とにかく素直に今のmabanuaさんを表現するために必要な術を選んでいったということですね。

特定された枠、さっき話に出た音楽のジャンルとかもそうですけど、意図的に何かを選り分けてものを生み出すことってつまらないと思うんです。色々なことがもっと混在していて良い。今回のタイトルは変なこだわりを捨て、領域を跨ぎ、“にじみ”のように広がっていった自分を素直に表現したいと思ってつけたんです。


All photos by Kentaro Yamada

mabanua
ドラマー、プロデューサー、シンガー。ブラックミュージックのフィルターを通しながらもジャンルに捉われないアプローチで多くの楽器を自ら演奏し、国内外のアーティストとコラボレートして作り上げたアルバムが世界各国で話題に。また、プロデューサーとして100曲以上の楽曲を手がけ、多数のCM楽曲や映画、ドラマ、アニメの劇伴も担当。またToro y Moi、Chet Faker、Madlib、Thundercatなど海外アーティストとも多数共演。さらに、Shingo Suzuki、関口シンゴとのバンド、Ovallとしても活動し、大型フェスの常連となる。また、ビートメイカーBudamunkとのユニット、Green Butter、タブラ奏者のU-zhaanと共にU-zhaan×mabanua、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文のソロプロジェクト、Gotch BANDのメンバーとしても活動中。

http://mabanua.com/

『Blurred』2018年8月29日(水)発売。

大隅祐輔

1985年、福島県福島市生まれ。武蔵野美術大学 芸術文化学科を卒業後、ウェブマガジン、出版社など数社を経て、2016年にフリーランスの編集ライターとして独立。得意分野は自動車、芸術、エッセイ的なもの。2018年、広義の橋架けをテーマとするbridgeというメディアを立ち上げ、ゆるゆると更新準備中。
http://bridge-magazine.com/