1997年、LINDAとTAKIによりスタートしたガーリーブランドの火付け役であるKatie (ケイティ)。

去年は設立20周年を迎えた。90年代の男ばかりのカルチャーに挟まれながらのガールズブランドの起業は楽しかったが、問題ももちろんあった。それでも社会や自分のブランドにおける男性の存在の否定はしない。そんな彼女には、カワイイだけではない、本当の女性の強さを感じた。

LINDA (リンダ)とはいつから呼ばれるように?

本名はゆふ子というので、ちょっと固めなのですが(笑)、 90年代の最初の方、一般の人がモデルをやるというのが流行った時代に、某雑誌のモデルになったことがあって。その時にはみんな本名を出さなかった時代だったから、編集の人がLINDAって付けたんです。それからずっとLINDAに。その時の写真集ね、見たくないですよね、今みたいに写真が直せないじゃないですか、だからすごく見た目が悪くて(笑) 一度学大で100円で売っているのみて、自分で買って捨てました(笑)。

Katieといえばカワイイファッション。カワイイといえば、原宿と連想されることが多いと思うのですが、なぜお店は代官山にあるのでしょうか?なぜ原宿じゃないのですか?

よく言われるのですが、Katieの原点って全然原宿カルチャーじゃないんですよ。KatieはTAKIと二人でやっています。90年代中盤の20代の頃、私はヒステリックグラマーで働いていて、TAKIちゃんは渋谷にあるおもちゃ屋ZAAPで働いていて、そこに仲間が色々溜まっていました。
当時は同じ年齢の若者が、ふつふつと面白いことを始めるんじゃないかという空気を感じる時代でした。だから私も自然とメーカーにいるより自分で何かをやりたいという思いを抱いていたのですが、その頃の裏原には女性社会は全然ありませんでした。

ある雑誌がうまく書いてくれた説明を引用すると、Katieは「90年代の男のカルチャーに揉まれながら、でも埋もれるとこなく独自の世界観を“プリプリ枠”でやってるところ」で、当時は本当にそういうところはなかった。もちろん同期の女性で活躍しているアパレルデザイナーの方はたくさんいるけれど、TAKIちゃんと女の子同士で、精神的にはタフだけどでもぶりっ子な格好がしたい!可愛いお店をやろうよ!となりました。MILK FEDとか、Xgirlとかもありましたし、MILKやVIVIENNE WESTWOODも大好きだったのですが、もう一声オルタナというか、そういうお店がとにかく無くてやりたかった。だから会社がやりたかったわけでも、ブランドがやりたかったわけでもなく、可愛いお店がやりたかったんです。それで良い店舗を探していたらたまたま代官山にみつかり現在に至るというわけです。

90年代中盤だったので、ちょっとギャングスタイルも到達してたし、みんなでコートニー・ラブの真似をして歩いていたような時代でした。私とTAKIちゃんも古着にヘアピンをつけて。ヘアピンショップやらない?!みたいな、なんの利幅も出ないようなお店の話から始まりました。「可愛いシュガーポットにいれて、パン屋さんみたいにとるの!」とか言っちゃって(笑)若かったですよね。そんな感じでスタートしました。可愛いヘアピンを買ってきたり、自分で作ったり。可愛いキャミソールとかランジェリーアイテムをアメリカで買ってきてリメイクしたり。今だと当たり前にあるものも、当時は本当にどこにも売っていなかったんです。あとは、デジタルハードコアバンドのツアーTシャツを作ったり。ごつい男のバンドのライブにツインテールのピタピタTシャツをきた私達がバンドTシャツを売るって・・そりゃそりゃ可愛かったですよね!(笑) バンギャルの先ですよ、売る側だから!(笑)。最初商品が何もなかった時代はそういうツアーTシャツとかを並べて売っていました。そういうカルチャーにおいてはKatieは早かったと思います。

デザインはTAKIさんとLINDAさんのお二人でやられているのですか?

二人でデザインはしています。
二人でやっていると何か問題があるんじゃないの?ってよく言われるのですが、そういうことは一度もないです。TAKIちゃんはもうファミリーというか。プライドとかでブランドが二つに別れるとか無駄じゃないですか。そういう気持ちでやってきているし、そういう自分の意見だけを通すっていうところにこだわりないんだろうなと思います。だから社員はそこそこ増えたけどずっと二人です。やっぱり認め合っていない人とは揉めるんだと思います。私たちはお互いの違いを認めあっていられるのがいいかなと思います。私にはできないことがTAKIちゃんにはできるし。

あと、私たちってガールズカルチャーということで女性だけの集団に思われがちなのですが、男性もまわりにいるんです。女性だけじゃなく、どこかで男性のカルチャーがあるからこそまとまる。女の子だけで可愛いことだけやってれば〜ということじゃなく、男性のツールが入ることでブランドが成り立っています。考える人も表現する人も組み立てる人も全員女じゃ違うのかもしれない。そういう意味でも、「ガーリー」に見られがちですが中身はよくみると違うんです。

ヒステリックグラマーで働く前のお話を聞かせていただけますか?

私は幼稚園からずっと女子校に通っていました。友達もだいぶしばらく変わらない環境で、途中寮生活も経験したようなすごく特殊な環境で育ちました。TAKIちゃんも寮生活をしていたので、そこは唯一の共通点ですね。親への反抗期もないけれど、代わりに自立もかなりはやいという他の人にはわかってもらえない環境をわかってくれるのもTAKIちゃんでした。

地元に友達もいないし、女子校だったから男性に対する意識もおかしくて(笑)。それでも近くにあったアメリカンスクールとか、共学の女の子たちにちょっと差別化というか、私は違うのよって見せつけたくて自分なりのおしゃれをしていました。16歳くらいの頃かな・・手にチェーンとか巻いて、ま紫の口紅をして、手の甲にタトゥーとか描いちゃったりして・・当時仲良くしていた友達は包帯を巻いていた(笑)それで近くのフードコートとかで同じ年くらいの男の子を意識して「私のこと見ているかな?」ってね。それは見ていたけれど違う意味ですよね(笑)。髪も頭の横を刈ってみたりとかした時は、クラスでプリントが回りました(笑)。「ブリーチとかパーマはしていないけど奇異な髪型をしている人のことをどう思いますか?」って、完全に私のことじゃん!ってね(笑)。 でも、今考えると、間違っていたかもしれないことも当時はプライドがあってやっていたんですよね。ニューウェーブとかゴスパンクが流行ってたからかな。お金もなかったし、髪を刈るのにお金はかからないし。今タイムマシンがあったら戻って止めますけど!(笑)。

その後卒業して、ファッション系の学校にいって、お洋服の基礎を勉強しました。その時に生まれて初めて男女共学になりました。いまでも覚えているのは隣に座ってる男の子が栃木から上京して来た子で。全員で自己紹介をしている際にある女の子が「栃木出身です」って言ったからその隣の男子に「ねえ、同じ県から来たって言ってるよ。知ってる?」って聞いたら「ばかだなあ。。同じ栃木だからって全員が知り合いなわけないだろ」って言われて、初めてああ、そうなんだって思いました。すごく当たり前なことなんだろうけど、地方の人にも会ったことがなかったし、それくらい小さなコミュニティで育ったんです。よく映画で描かれるような女子校の世界、女子の濃密な美しさだけの世界ってありますよね。でも実際はあんなことではないんです。でもそれが、今みたいな偏ったことをするという原動力になっているのかもしれません。色々なコンプレックスの反動が今の不思議な感じになったんじゃないかな(笑)。

渇望していました。可愛い格好とか、異性とか、映画とかに。ぐっとのめりこんじゃったのも自分の生活になかったから。そんなことばっかり考えていました。だから今でも文化祭ってどんな感じ?と思います。今でもそういう話を聞いてキュンキュンしちゃうんです。

服飾学校を卒業したらMILKに入りたいと漠然と思っていたのですが、春休みに初めてNYに行き、その時に出会ったイケてるお姉さんに「ヒスをうけてみたら?」と言われて受けたら受かって。ヒスではデザイン以外にも販売など色々なことを経験させてもらい、勉強になりました。その後最初に話したように、ちょっと世の中的に同じ年齢くらいの人がふつふつと面白いことを始めているなという気がして、なぜかわからないけれどメーカーを辞めなきゃと思ったんです。それでフリーランスになって。タトゥーマガジンのライターをしたり、ヒスの北村信彦さんの紹介でスタイリングの仕事したり。フリーランスで仕事をするのには良い時代でした。アパレルのバイヤーの話をもらい、半年契約で入ったり。ちょこちょこスタイリストの仕事が入ったり。ただ、私はスタイリストには向いていませんでした。請求書も書けなかったですし!

90年代のグランジ真っ只中、ヒスみたいなブランドってヒスしかなかったから、すごく刺激はうけました。当時は外国人が欲しがる国内ブランドってコム・デ・ギャルソンやヨウジヤマモトなど、モードしかなかったので、海外のバンドマンが着たいって思うようなブランドはヒスが早かったんじゃないかな。だから本当にすごく良い経験でした。居心地もよかったし、働いている人も個性溢れる人が多かったです。良い形で独立させてもらったので、今でも海外のキャラクター(Betty Pageなど)のライセンスを取る時などはノブさんに相談して手伝っていただいたりします。ありがたいです。私たちのような小さいビジネスだと切り口から入っていくのがどうしても難しかったりするので。

女性二人だとやはりビジネス的に難しかったりするのですか?

最初は24歳と27歳という若い女子2人だったのでよくありました。生産工場さんとかに交渉しても「お前じゃ話にならない!社長出せ!」とか言われて、「わかりました、少々お待ちください」とか言ってもう一回電話に出るんですよね!(笑)だって二人しかいないから(笑)。そうしたら「お前さっきの女だろ!」とかバレちゃって(笑) ふざけるな!とか言われて、「ですから〜」みたいな。でもそういうことを思い返すと、交渉力は若いうちからあったかなと思います。美術系とか、デザイン系をやられている方の中では作家性を追求することが目的な人もいると思います。どこかの田舎に行って畳一畳分の絵を描くとか。でもそういうのに興味はなくて、私は商売がしたい。自分のビジョンをビジネスにしたい、そういう部分がTAKIちゃんとあうのだと思います。モードも大好きですが、お店がないと説得力がないと思います。ネットショップだけもあるけれど、私にとっては、可愛い店で、それにあった音楽がかかってて、お店にその店の服を着た人がいる。ディズニーランドじゃないけど、トータルブランディングってそういうことだと思います。

だからかわからないのですが、「可愛いファッションが好き!」というよりかは「可愛いカルチャーを、説得力があるところしか買い物をしません!」っていう人たち、固定ファンに支持されていると思います、Katieって (笑)そういうつもりじゃなかったんですけど!でもずーっと見てきてくれている人たちがいるから、ちょっといつもと違いすぎることをしすぎると「今回はちょっと好きじゃない」って言われちゃいますよね。まあ表現者である限り、何を言われても仕方ないし、好きなものを作り続けるという腹くくりはしているのですが、お店をやっている以上、その辺は難しいですよね。求められているものもあるし。Katieファンはかわいいに対しての欲が強いですし。どちらかというとKatieはコレクターの枠なのかもしれません。ファッション=アパレルの枠じゃない気がします。収集癖の流れになってる気が(笑)。

そういえば、映画の衣装などを再現するコレクション“Wanna be”もどちらかというと、コレクター枠ですよね?

私たちの若い時って、ものに溢れかえっていたけどハイブランドも買いづらかったし、憧れがミュージシャンや映画の人だったり、真似したい人や物が近くなかったんです。夢夢しい世界が本当に夢の中にあった。私の座右の目は「人生は映画のように」なのですが、影響を受けた映画の中のスタイルがしたい!と思っていました。今の時代の子達にも、その辺の人を憧れにして欲しくない!と思っちゃうんですよね。だからそういうのもあって、“Wanna Be”コレクションではグランジクイーンのコートニーラブとかTAKIちゃんと夢中になった映画やバンドの登場人物像のドレスやコーディネートを再現したりしています。その活動はしばらくやってみようかなと思ってます。

小さい時から制服だったから服に対するコンプレックスは大きいかもしれません。とにかく可愛い格好がしたかった。おしゃれがしたかった。だから子供の時からデザイナーになりたかったです。毎日毎日、無駄に可愛い格好がしたい。今でもそれは思います。一度、ハロウィンの時に、ハロウィンぽい服装をするのを忘れて仕事に行って、それに気づいてから一回家に帰ったこともありました。コーディネートしないと気が済まないんです。でも、そういうのって全然苦じゃないです。



Katie

東京都渋谷区恵比寿西1-29-7
TEL: 03-3496-4885
12:00~19:00 (平日)
12:00~20:00 (土日祝)

Katie
Web Store


Photos by Yamato Ohashi

松下沙花 (まつしたさか)

アーティスト。
長崎生まれ。ニューヨーク、トロント、横浜育ち。
Wimbledon School of Art (現ロンドン芸術大学ウィンブルドンカレッジオブアート)の舞台衣装科で優秀学位を取得。その後Motley Theatre design Courseで舞台美術を学ぶ。大学院卒業後はロンドンにてフリーのシアターデザイナーとして映画、舞台、インスタレーションプロジェクトのデザインを手がけた。2012年より個人プロジェクトの制作を始め、現在は東京をベースに活動を続けている。
www.sakamatsushita.com
instagram: @sakamat