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	<description>世界と繋がるミレニアル世代に向けて、国際的な視点・価値観・知性を届けるメディアです。</description>
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		<title>エヴァンゲリオンと会田誠のセカイ　「セカイ系」から「シャドー系」へ</title>
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		<pubDate>Sun, 29 Nov 2015 01:45:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator>NewSphere</dc:creator>
		<category><![CDATA[Entertainment]]></category>

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		<description><![CDATA[　現代美術家・会田誠氏の個展『まあ、Still Aliveってこーゆーこと』が、新潟県立近代美術館で開催された。エログロで知られる会田氏だが、本展では比較的控えめな印象だ。その代わりに引き立っていたキーワードは、「セカイ [&#8230;]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class="wprt-container"><p>　現代美術家・会田誠氏の個展『まあ、Still Aliveってこーゆーこと』が、新潟県立近代美術館で開催された。エログロで知られる会田氏だが、本展では比較的控えめな印象だ。その代わりに引き立っていたキーワードは、「セカイ」だ。</p>
<p>　日本のカルチャーと世界との関係を考えるとき、「セカイ系」という考え方は避けて通れない。なぜなら、エヴァンゲリオンに代表されるような「セカイ系」は、多くの作品に影響を与えたからだ。エヴァンゲリオンと会田誠は、それぞれ異なる「セカイ」を示している。その違いを知ることでわたしたちは、わたしたちが住んでいる「セカイ」の有り様を知ることになるかもしれない。</p>
<p><strong>◆中景のないセカイと近景のないセカイ</strong><br />
　まず、主にアニメで用いられる「セカイ系」とは、個人の物語と全世界の物語が直結している世界観を持つ作品群のことである（一般的な世界とは異なるため「セカイ」と表記される）。エヴァンゲリオンの登場人物であるシンジ君の精神心理は、他のコミュニティや社会を介在させないまま、世界（全世界的危機）と直接関連している（個人と世界を結びつけるときには何らかの中間項が介在するが、「セカイ系」においては、近景-中景-遠景の中景が欠落した状態で物語が展開していく）。</p>
<p>　一方、会田誠のセカイにおいては、エヴァンゲリオンのように個人的な物語は特に描かれてはいない。会田誠はシンジ君ではない。シンジ君のような悩みや逡巡が会田氏にないということではなく、作品そのものには、そのような個人的な物語が織り込まれていない。会田誠の世界観には、エヴァンゲリオンとは異なり、近景がない。そこにある関係は、日本と国際社会だ。</p>
<p>　以上のことからシンプルな構図を汲み上げる。エヴァンゲリオンのセカイは、「個人(近景)-世界(遠景)」、会田誠のセカイは、「日本(中景)-世界(遠景)」となる。近景が欠落した会田誠のセカイについてもう少し具体にみてみよう。</p>
<p><strong>◆「私」はセカイのどこにいるのか</strong><br />
　展覧会の出品作品には例えば、『ビン・ラディンと名乗る男』や『国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ』という作品がある。会田氏はそれぞれ、ビン・ラディン、安倍首相に扮しているようにみえる。該当人物と比べてややとぼけた格好にずらした仕方を採用する前者と、逆説的に本質的な議論を展開する後者には、世界（社会的危機）への、会田誠特有の捻れたアプローチがみてとれる。両作品とも、会田誠本人が出演してはいるが、それは会田誠という個人そのものという訳では特にない。シンジ君のようなプライベートでナイーブな語り口とは異なり、笑いやとぼけ、批判や皮肉、打開策や謎などが含まれている（小鳥が好きな「ビン・ラディン」は、こたつで日本酒を飲んでいる。あんこが好きな「安倍首相」は、グローバリゼーションを危惧している）。</p>
<p>　世界との関係を結ぶとき、そこには、世界を対象化する視点が存在する。エヴァンゲリオンでその視点はシンジ君だが、不思議なことに会田誠においてそれは、会田誠本人ではないようにみえる。それが最も顕著なのは、閉ざされた部屋の中で無言の国際電話をかけ続ける映像作品『ロンリー・プラネット』だ。世界中の不特定多数に電話をかけておきながら先方に全く応じないその様子は、所在不明の誰かという奇妙な存在を突きつけている。エヴァンゲリオンにおいて「私」は、世界の中で世界と直結しているのに対し、会田誠において「私」は、世界の外で間接的に存在している。</p>
<p><strong>◆影のセカイ</strong><br />
　近代の本質は、世界が像となり、人間が主観になることだと、最も重要な思想家の一人であるハイデガーは『世界像の時代』の中で述べている。これを日常的に言い換えるなら、パソコンやスマートフォンをみるときと似ているだろう。画面に映し出されたイメージは世界そのものではないかもしれないが、わたしたちはその像を世界として認識している。</p>
<p>　ハイデガーはまた、同著でこうも指摘する。「人間がスプエクトゥム（基底主体）となり、世界が像と化せられるに及んで、計量しえないものが見えない影となって、地上一切の事物を覆っているのです」。これは、世界を像としてみることで生まれる世界像の影が、みえない未知の何かとして存在していることを示唆している。</p>
<p>　視点が世界の中に埋没しているエヴァンゲリオンのセカイは、世界像そのものである。「終わりなき日常」を生きる未成熟な身体が、個人と世界を直結させるという近視眼的な世界観を抱くのはいわば自然なことだ。しかしながら、昨今（特に311以降）、そのような「セカイ系」についてあまり見聞きしないのはなぜだろう。それは、他のコミュニティや社会を意識せずとも生きていける平板な日常が、先の震災によって凹凸を持ちはじめるという変容に起因しているのではないだろうか。わたしたちは、「セカイ系」という日常の世界観をアップデートしなければならない現実と向き合っている。</p>
<p>　このとき、視点が世界の外にある会田誠のセカイは、わたしたちの世界を考える上で重要な役割を果たすだろう。なぜなら会田誠の作品は、世界像の「影」を扱っていると言えるからだ（とすれば、『まあ、Still Aliveってこーゆーこと』という展覧会タイトルの「こーゆーこと」とは、世界像の「影」の様子と考えることができる）。「セカイ系」を採用できない現在のわたしたちの世界観はまさにこの、影のセカイ（「シャドー系」）なのではないだろうか。会田誠の作品群が、現在のシャドー・ワールドを映し出していると考えるとき、それらをみるわたしたちは、いったいどこにいるのだろう。</p>
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		<title>オープン前日に600万アクセスで話題を呼んだテーマパーク「ディズマランド」の示した新しいアートとは？</title>
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		<pubDate>Sat, 31 Oct 2015 01:45:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>NewSphere</dc:creator>
		<category><![CDATA[Entertainment]]></category>

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		<description><![CDATA[　イギリスの覆面アーティスト、バンクシーたちによる陰気なテーマパーク「ディズマランド」は、様々な影響を世界に与えた。入場チケットをオンライン予約するために訪れた人たちは、オープン前日だけで600万アクセスだった。公式サイ [&#8230;]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class="wprt-container"><p>　イギリスの覆面アーティスト、バンクシーたちによる陰気なテーマパーク「ディズマランド」は、様々な影響を世界に与えた。入場チケットをオンライン予約するために訪れた人たちは、オープン前日だけで600万アクセスだった。公式サイトはパンクし、そのエラー自体も「アートなのでは？」という憶測を生み、さらなる話題となった。開園前から秒速で更新されるSNS、会場内外で巻き起こる議論やエピソード。プール跡地を再利用したディズマランドの登場は、拡張するアート体験について考えさせられる。</p>
<p><strong>◆新たなアート体験</strong><br />
　一般的に、アートを体験する場としては美術館やギャラリーを思い浮かべるかもしれない。ただ、そのような場所でのアート体験は、この二、三百年の間に培われてきた近代的な発想だ。そのような常識を更新する流れは主に20世紀からはじまり、とりわけ21世紀以降特に、世界中で増え続けている。</p>
<p>　その流れの根底には、アート作品自体はもちろんのこと、それをどこでどのように体験するかということも重要である、という考えがある。アートワールドでもっとも影響力のある人物の一人であるジェフリー・ダイチ氏は最近のインタビューで、「新しいタイプの建物をみつけて、フレッシュなアート・エクスペリエンスのアプローチを開発すること」について語っている。</p>
<p>　既存の枠からずれたアート体験を求める動きの活発化には、このような開拓精神が見受けられる。日本でも大きな話題となったディズマランドも、拡張するアート・エクスペリエンスのひとつと言えるのではないだろうか。</p>
<p><strong>◆SNSで拡張するアート</strong><br />
　まずはディズマランドに対するSNSの反応をみてみよう。ディズマランドは、SNSにどのような影響を与えたのだろうか。</p>
<p>　BBCによると、ディズマランドに関するツイートは30万を超え、アメリカ、イギリス、日本の順で大きな話題となった。また、インスタグラムでは86,500ポストがタグ付けされ、Youtubeでは関連動画が11,000件投稿された。このようなSNSでの多大な反応は、ディズマランドの高い企画力とヴィジュアル・ブランディングに依るところが大きい。</p>
<p>　陽気なテーマパークを陰気に変えるという発想の転換は、ユーモアと批評を兼ね備えている。テーマパークは明るく楽しげであるという前提を覆したディズマランドは、やる気のないスタッフの画像や奇妙で陰鬱なPVによって、わたしたちの好奇心を駆り立てることに成功した。「行ってみたい」、「写真を撮ってみんなに知らせたい」。そう思わせる仕掛けが、この（悪）夢のテーマパークには随所に散りばめられていた。 </p>
<p>　一方で、肯定的ではない意見もあることもまた事実だ。実際ディズマランドへ行ってみると、健康的なビーチのすぐ側にあり、観客はみんな楽しげで、まったくディズマル（陰気）ではなかった。あるいは、（詳細は後述するが）ガザで作品を制作したことのあるバンクシーが取るべき行動ではないなど賛否両論が巻き起こった。このような議論は、ディズマランドで行われたアートがSNSで拡張していく源泉のひとつとなっている。</p>
<p><strong>◆エピソードで拡張するアート</strong><br />
　もちろん反応はSNSだけではない。会場内外で起きた出来事そのものもアートを拡張させている。</p>
<p>　英紙インデペンデントや国際的なアートマーケット情報などを扱うartnetなどによると、会場内では政治的な出来事が起こった。参加アーティストであるパレスチナ人が、同じく参加アーティストであるイスラエル人から自身の作品を守るため、ある抗議を行ったのだ。パレスチナ人アーティストは開園初日ディズマランドを訪れた。するとイスラエル人アーティストが参加していることに気づいた。彼はそのことを事前に知らされていなかった。運営側に事情を説明するよう求めたが、いつまで待っても誰にも対応されなかった。彼はホテルに戻り、ベッドのシーツに炭で「ガザよ安らかに。イスラエルをボイコットせよ」と書いた。会場に戻った彼は自身の作品にシーツを被せ、その下でまるで死体のように横になって対抗した。それを知った運営側は彼を退園させた。 </p>
<p>　一方、英紙ガーディアンは会場外での出来事を報じている。ディズマランドで使われた木材や機材が国外に輸送され、難民キャンプのために再利用されることになったのだ。ディズマランドは、会場となったイギリスのウェストン・スーパー・メアから離れ、フランスのカレーに移動する。このような地理的移動と再利用によって、ディズマランドは文字通り拡張され続けている。</p>
<p>　拡張するアート・エクスペリエンスは、かつてであればアートを体験できなかった場所へとわたしたちを招待している。そこではアートの見方を更新させるような気づきや、新鮮な発想が待っている。そのような変化は、決してアートだけではなく、わたしたちが知っていると思っている世界そのものを、改めて見つめ直す重要な契機にもなっている。</p>
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		<title>「ここはだれの場所？」会田家とおかざき乾じろ作品が示す“グローカルなアート”</title>
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		<pubDate>Mon, 07 Sep 2015 08:45:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>NewSphere</dc:creator>
		<category><![CDATA[Entertainment]]></category>

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		<description><![CDATA[『おとなもこどもも考える　ここはだれの場所？』展が、東京都現代美術館で開催されている。会田家が出展している文部科学省への批判を書いた作品が物議を呼び大きな話題となったが、ここでは会田家とおかざき乾じろ氏の作品を比較したい [&#8230;]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class="wprt-container"><p>『おとなもこどもも考える　ここはだれの場所？』展が、東京都現代美術館で開催されている。会田家が出展している文部科学省への批判を書いた作品が物議を呼び大きな話題となったが、ここでは会田家とおかざき乾じろ氏の作品を比較したい。</p>
<p><strong>◆日本語と英語</strong><br />
　アートと仲良くなるとき、そこにはことばがある。アートとことばの関係は、絵本の挿絵と物語のように、お互いがお互いを補い合っている。まずは、（問題とされた）会田家の『檄文』と、おかざき氏のウォール・テキスト『はじまるよ、びじゅつかん』を比較する。</p>
<p>　そこには言語設定による対象の違いがある。日本語で書かれた会田家のテキストは、日本の社会にアプローチしている。一方、日本語と英語で書かれたおかざき氏のテキストは、世界中にアプローチしていると言える。ここから取り出せるシンプルな図式は、日本に限定した「ローカルな会田家」と地域を限定しない「グローバルなおかざき乾じろ」だ。</p>
<p>「作品撤去要請問題」が浮上した直後の会田誠氏によるツイートは、8000リツイートを超える特異な反響をみせた。この問題は新聞や雑誌、新幹線のニュース、国外メディアなどでも取り上げられた。一方のおかざき氏は、会田家のような展開はいま現在みられていない（その可能性は十分にあるにもかかわらず）。</p>
<p>　ことばにおける両者の比較は、逆説的な展開を示している。それは、ローカルな問題を扱う会田家がグローバルになり、グローバルな問題を扱うおかざき氏がローカルになっているという状況だ。</p>
<p><strong>◆滞在型と通過型</strong><br />
　アートに触れるとき、そこには場所がある。アートと場所の関係は、料理と器のように、組み合わせと配置によって変化する。次に、両者における展示室の空間設計の違いにフォーカスを当てる。</p>
<p>　会田家は、おとなとこどもを隔てない「滞在型」であるのに対し、おかざき氏は、おとなとこどもを隔てた「通過型」である。会田家は、おとなとこどもが住む日本の社会を、家族の視点から問いかけたローカルな空間と言える。展示室全体に作品が散在し、滞在時間は長く設定されている。一方おかざき氏は、おとなが住む世界を、こどもの視点から問いかけたグローバルな空間と言える。おとなは、展示室の大部分を占める仮設美術館に入ることができないため、滞在時間は短く設定されている。</p>
<p>「ザイオンス効果」と呼ばれるものがある。これは、接触回数が増えるにつれて好意度が高まるという人間の傾向を示している。空間設計における両者の比較は、もうひとつの逆説的な展開を示している。ローカルな会田家は、滞在型による高いザイオンス効果によってグローバルになり、グローバルなおかざき氏は、通過型による低いザイオンス効果によってローカルになっているという状況だ。</p>
<p><strong>◆グローカルなアートがそこにある</strong><br />
　以上のような両者のふたつの比較は、会田家におけるローカルのグローバル化と、おかざき氏におけるグローバルのローカル化を浮き彫りにしている。それは、アートが世界に伝わる時のことばは、日本語と英語の問題、ローカルとグローバルの問題ではないということだ。そして、アートは、接触時間によって伝わり方が変わることを教えてくれている。あるいはむしろ、ローカルとグローバルが入り乱れた状態こそがここにみてとれる。この複雑さを捉えるときに鍵となるのが、ローカルとグローバルを組み合わせた「グローカル」という考え方だ。</p>
<p>　内容と形式の異なる両者のアプローチが、卓越したアートの実践であるという点で同じということは、展覧会場で確かめることができる。「社会はだれのもの？」「美術館はだれのもの？」あるいは、そもそも社会とは何なのか。美術館とは何なのか。「だれ」とはだれなのか。そのような問いの投げかけと応答が、アートの現場で渦巻いている。ローカルとグローバルが交差し、他では体験できない、グローカルなアートがそこにある。</p>
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