日本のカレーがつなぐ意外な縁たち…「北朝鮮」「被災地」「視覚障害者」

 災害時の炊き出しの代表的なメニューと言えば、カレーだろう。今なお避難生活が続く熊本地震の被災地でも、「カレーの炊き出し」の報告が各地からあがっている。2011年の東日本大震災でも、在日インド人が炊き出しで提供したカレーが被災者の身と心を温めたという逸話があった。この炊き出しのカレーは今なお人々に愛されており、その発展形の「女川カレー」が先月、“里帰り”を果たしている。首都ニューデリーで開かれたイベントで振る舞われ、本場の人たちの舌を楽しませた様子が、内外のメディアで報じられている。

 インド発のカレーは世界各地で「故郷の味」にアレンジされ、愛されているが、「世界で最も孤立した国」でも重要な役割を果たしてきたようだ。シドニー大学の北朝鮮研究者、マーカス・ベル氏が米国の公共ラジオ局NPR(電子版)に、戦後の帰国事業で北朝鮮に渡った在日朝鮮人がもたらした「日本のカレー」を巡るエッセイを寄せている。世界中の人々に愛されるカレーを巡る、知られざる逸話をいくつか紹介したい。

◆帰還事業と共に北朝鮮に渡った「日本のカレー」
 カレーの起源は一説には紀元前2500年にさかのぼると言われる。日本の「カレーライス」の歴史をひも解けば、18世紀にイギリス人が当時植民地支配していたインドから持ち帰ったカレー粉をベースにした「英国式カレー」が元になっているとされている。イギリスのカレーは、当時結びつきが強かった海軍を通じて日本に伝わり、1872年に初めて日本の料理本にカレーライスのレシピが登場した。その後、日本独自の発展を遂げ、国民食となったのは周知の通りだ。

 エッセイでこうした経緯を解説しているベル氏は、自身も「日本のカレー」の大ファンだ。大阪の在日朝鮮人社会を研究するために来日した際に、魅力的な香りに誘われて入ったカレースタンドで昼食に初めて「カレーライス」を食べた。その味に衝撃を受けて以来、カレーライスの虜になったという。その晩、早速、在日朝鮮人の友人たちにその感動を伝えると、「そう、まさにその通り。日本のカレーは美味しい。でも、雪が舞う平壌で食べなければ一生の損だよ」と言われたという。それ以来、ベル氏は彼らと運命を共にした「北朝鮮のカレー」に、おおいに興味を持ったという。

 1960年代、在日朝鮮人の帰還事業がピークを迎えていた。「その当時は、日本に住んでいた多くの朝鮮人は、韓国よりも北朝鮮の方が良いと考えていた」とベル氏は記す。1959年から1984年にかけ、日本人妻も含む9万人余りが北朝鮮に渡ったとされている。この帰国者たちとともに、1968年に登場したレトルトカレー(大塚食品の『ボンカレー』)などの日本のカレーが北朝鮮に渡ったのだという。やがてカレーは日本を思い出させる“故郷の味”となり、「日本に残った家族は即席カレーを箱いっぱいに詰めて厳重に梱包し、北朝鮮にいる愛する者に送った」とベル氏は言う。

◆物々交換や賄賂にも
 ベル氏は、北朝鮮に渡ったカレーの数奇な運命をこう書き記す。「北朝鮮政府は、帰国者たちに日本に戻ることを禁じた。彼らは、北朝鮮の厳しい環境を生き抜かなければならなかった。カレーをはじめとする輸入食品を得ることが、生死を分けたのだ。彼らは、カレーをキムチ、米、肉などとの物々交換に利用した。朝鮮労働党幹部への賄賂としても使った。闇市でカレーと麺の屋台を開く者もいた」

 “ネイティブ”の北朝鮮人も、カレーの魅力に取り憑かれた。脱北者の一人はベル氏に次のように語っている。「我々ネイティブの北朝鮮人は、日本からの移民の真似をしていた。彼らのような服を着て、彼らが食べているものを食べようとした。彼らが食べていたものは、自分たちのものよりも良かったからね」。その代表格であるカレーを手に入れるために、帰国者に頼る者も多かったという。1990年代の飢饉の際には、日本のカレーが「人々の生命線となった」とベル氏は書く。

 しかし、2002年に拉致問題が浮上して以降、経済制裁により日本のカレーは庶民の手に届かないものとなった。その代わり、中国から“偽物”のカレーが流入するようになったというが、ベル氏は複数の脱北者から、それは「味と香りに欠け、劣った材料で作られている」という証言を得ている。「北朝鮮のカレー」の歴史は、戦後の日朝関係の写し鏡と言えるかもしれない。

◆盲導犬使用者が愛するカレー
 最近の日本でも、カレーが苦境に陥った人々を救っている。東日本大震災の直後、神奈川県鎌倉市で貿易業を営む在日インド人のメータ・バーラートさんらが、本場直輸入のスパイスを使ったカレーを女川町で炊き出しした。これが多くの町民の心に残り、地元の名物の「女川カレー」に発展。復興と地域振興に一役買っている。先月には、ニューデリーで開かれた国際交流基金のイベントで「女川カレー」が振る舞われ、日印友好のシンボルとして歓迎された。

 一方、東京・銀座には視覚障害者の社会参加のシンボルになっているインド料理店がある。昭和通り沿いにある『ナイルレストラン』は、戦前に来日し、戦中・戦後の日本と満州国でインド独立運動に尽力したA.Mナイル氏が、1949年に開店した日本初の本格インド料理専門店だ。ここを贔屓にしていたのが、1957年に初の国産盲導犬を送り出した塩屋賢一氏。当時はどの飲食店でも盲導犬の入店が断られていたという状況だったが、塩屋氏の訴えにナイル氏が応える形で、同店が初めて盲導犬の入店を受け入れた。

 その後、塩屋氏が設立した盲導犬育成団体『アイメイト協会』の関係者やアイメイト(同協会出身の盲導犬の独自の呼称)使用者の尽力で、徐々に飲食店・宿泊施設への入店や公共交通機関への乗車の門戸が開かれていった。2002年には身体障害者補助犬法が成立し、入店拒否や乗車拒否が法律で禁じられるようになった。今年4月1日には新たに障害者差別解消法が施行。2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向け、障害者を巡る社会環境のさらなる充実が図られている。こうした流れの原点の一つが、『ナイルレストラン』なのだ。

 アイメイト協会の歩行指導(アイメイトの使用を希望する人のための4週間の教習)では、“卒業試験”的な位置づけとして、最終日前日に銀座の繁華街を歩くのが伝統になっている。無事銀座を歩き終えた人たちは『ナイルレストラン』でカレーを食べ、門出を祝う。もちろん、足元には正式にペアとなったアイメイトが静かに伏せている。長年にわたって受け継がれているもう一つの「カレーがある光景」だ。

Text by 内村 浩介