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親日家デビッド・ボウイ、欧米の日本文化への考えを変えた? BBCなど日本との関係を報道

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親日家デビッド・ボウイ、欧米の日本文化への考えを変えた? BBCなど日本との関係を報道

 世界的に著名なミュージシャンであるデビッド・ボウイさんが10日死去した。69歳だった。氏のアーティスト活動では、その中性的な美貌を生かしたビジュアル面での表現も大きなウエートを占めた。ステージでの衣装やパフォーマンスに関して、歌舞伎などの日本文化がインスピレーションを与えていたと英BBCなどが伝えている。氏と日本の関係には浅からぬものがあったようだ。

◆若き日の歌舞伎や能との出会い
 BBCは「デビッド・ボウイの日本流への熱情」と題する記事で、氏と日本との関係を詳しく描き出している。氏は親日家としてよく知られ、自身のステージ・パフォーマンスに日本文化の要素を数多く取り入れた、とBBCは伝える。

 ボウイさんが初めて日本文化を知るようになったのは、歌舞伎や能といった伝統芸能を通してのようだ。氏が20歳前後の頃、イギリスの舞踏家リンゼイ・ケンプ氏の下でダンスとマイムを学んだが、BBCによると、ケンプ氏は伝統的な歌舞伎の様式に大きな影響を受けていた。誇張された身振り、手の込んだ衣装、人目を引くメーキャップ、「女形」の存在などである。

 ボウイさんはこのケンプ氏から日本文化について初めて紹介された。服飾史家のヘリーン・ティアン氏は、ボウイさんと日本のファッションについての文章の中で、「ケンプこそが、ボウイに、日本文化、演劇、演劇の音楽や身振り、女形を初めて紹介した人物だ」と語っている。米国際公共放送(PRI)が伝えている。

 アジアニュースサイトのアジアン・コレスポンデント(AC)によると、ケンプ氏は、能と歌舞伎についての本を用いて、ボウイさんに日本の演劇の伝統的手法について教えたそうだ。ボウイさん自身、1960年代にリンゼイ・ケンプの下で学んだということが、自身のキャリアのターニングポイントになったとインタビューで語っていたそうだ。

◆70年代の氏のビジュアル・イメージ作りに山本寛斎氏が大きく貢献
 デビッド・ボウイについて、人々は彼の1970年代の著しく創作的な時期を最も強く記憶に留めていくだろう、とACは語る。この時期、同氏は、現代大衆文化に最も長く残るイメージのいくつかを生み出したが、最も記憶に残るボウイの初期のビジュアルの多くは、日本にルーツをたどることができる、とACは語っている。

 例えば、ボウイさんはあるアルバムのジャケットで、顔にカラフルな稲妻を描いているが、ティアン氏は、ここに歌舞伎のメイクの影響を見ている(BBC)。

 この時期のボウイさんにビジュアル面で大きな力を与えていたのが、日本人ファッションデザイナーの山本寛斎氏だった。両氏は1970年代に初めて知り合った。初めての対面で「私たちは即座に親密になった」と山本氏はファッション誌「エル」のインタビューで語った(AC)。山本氏は、2人があれほど強い親近感を持った理由ははっきりと分からないが、「私たちの間で共鳴する何かがあった、国籍や性別を超えた何かが」と語っている(BBC)。

 ボウイさんについて、山本氏は、「音楽とファッションの両方で自己表現するすべを知っていた人だった」「そういう人は、最近ではそれほど珍しくないかもしれないが、彼は両方ともやる先駆者の1人だった」と語っている(BBC)。

 山本氏はボウイさんから依頼を受け、ツアー衣装を制作した。ティアン氏は、ボウイさんの美しい中性的な容姿が山本氏のデザインのユニセックスなスタイルに合っていた、と述べている(BBC)。

 山本氏のアバンギャルドな着物と、歌舞伎にインスパイアされた「たやすく引きはがせる」衣装が、ボウイさんの中性的なビジュアルを確かなものとし、ロックンロールの歴史において最も記憶に残るイメージのいくつかを創造するのに役立った、とACは述べる。ティアン氏は、ボウイは歌舞伎の「早変わり」の技術をステージで用いた最初の欧米人アーティストだったと述べている(BBC)。

 BBC、ACは記事中、写真で山本氏のデザインした衣装を紹介しているが、それらは歌舞伎の衣装や、着物など、日本の要素を取り込んだものだった。ある衣装には、ボウイさんの名前が「出火吐暴威」と当て字で書かれている。

◆男女の性差の橋渡しと同時に、東洋と西洋の橋渡し
 PRIによると、ティアン氏は、ボウイさんが中性的なビジュアルを前面に押し立てていたことに注目し、そこに「女形」の影響を見ているようである。ティアン氏は、日本文化では、ボウイさんにそれほどの影響を与えたこの中性さというものは、普通のことだった、と語っている。つまり、ボウイさんのスタイルは、日本人にとって受け入れやすいもので、そのためもあって日本での人気が高かった、という見立てのようだ。

 また、ボウイさんが日本的な要素を取り入れたことを、日本人はオマージュとして受け取ったということをティアン氏は語っている(PRI)。昨今、同氏のような立場を取るアーティストは、文化盗用、すなわち異文化を自らの用途のために盗用するものだとして非難されるかもしれないが、日本では決してそんなふうに見られなかった、とティアン氏はBBCで語っている(こういった異文化の「つまみ食い」を非難する姿勢は、日本人には縁遠いものに思われる)。

 日本でのボウイ人気は非常に高かかった。BBCは、日本では彼は今でも崇拝の的であると語っている。ACによると、ボウイさんは日本で初めてのツアー中に急速に有名になったという。その後の10年で彼は13回日本を訪れた。日本はボウイさんの音楽が世界で2番目に売れる国となり、母国イギリスでの売り上げをしのいだ。(1位はアメリカ)

 ビジュアル系バンドなど、日本のミュージシャンたちにも、ボウイさんは大きな影響を残した(AC)。また、ティアン氏によると、ボウイさん以後、日本の衣装やメイクを取り入れる欧米のミュージシャンが頻出したそうである(PRI)。「実際、ボウイが、欧米での日本文化とファッションの理解を一新した張本人であると言っても、多大な飛躍にはならないだろう」とティアン氏は語っている。

 このように、ボウイさんが東洋と西洋の橋渡しを行う存在となったことについて、ティアン氏は「ボウイは究極の外交家兼アーティストになるべくして生まれた」と語っている(BBC)。

(田所秀徳)

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